正しくない恋のはじまり

……“調整”。
便利な言葉だと思う。私もよく使ってしまう。

曖昧で、責任がなくて、誰も間違っていない顔ができる。


青砥さんは、わずかに首を傾けた。
その仕草だけで、心拍が一つ跳ねる。

「調整、ですか」

ただ彼の口で繰り返されただけなのに、意味が変わる。
逃げ場が、少しずつ削られていく。

「私には、今期の利回りを合わせるために見えるんですが。認識、違いますか?」


───やめて。
そこ、触らないで。

そう思った時点で、もう遅かった。

私がまさに、見て見ぬふりをした場所だった。
気づかないことにした違和感。

それを、彼はいとも簡単に引きずり出してくる。
なんてことない顔で、それが当たり前かのように。


「……問題はない、という判断です」

担当者の受け答えする声が、少し遅れている。
言葉を選んでいるのが、外側からだとよく見えた。

……あの人も、彼に揺さぶられている。

そう思った瞬間、自分の指先も同じようにわずかに震えていることに気づいた。

あそこに立っていたのは、もしかしたら自分だったかもしれないと思うと、自然に“恐怖”が襲ってくる。


「今期の着地を優先して、用地取得費の一部は来期計上で組み直しています」

とってつけたような担当者のその言葉に、青砥さんは少しだけ含んだように目を細めた。

「…そうですか」

それだけで、じゅうぶんだった。
その“引き方”が、いちばん怖い。

追い詰めない。
決定もしない。

ただ、“分かっている”まま残す。


ページの上の数字が、急に現実味を帯びる。
さっきまで整っていたものが、どこか歪んで見えた。

───見えてしまった。
気づいてしまった。


「……では、この内容で進めます」


青砥さんが引いたことで、会議は再び進み出した。

誰も、そこに触れないまま。
触れないことで、守っているのか。それとも、見ないふりをしているだけなのか。

分からない。
分かりたくない。


ただ、さっきの一言が頭から離れない。

『来期に寄せてますよね』

…全部、知ってるくせに。