正しくない恋のはじまり

朝のオフィスは、いつも通りだった。

コーヒーの匂いが漂って、キーボードの音がそこかしこにあふれ、誰かの「お疲れ様です」が聞こえる。
なにもかも、昨日と変わらない。

───変わっているのは、自分だけだ。

パソコンを立ち上げて、昨日の資料を開く。
指は、いつも通り動いている。誤字もないし、手順も間違っていない。

なのに、中身だけがまるでついてこなかった。


昨日のことが、頭の奥に残っている。
消そうとすると、余計にはっきりする。
意識しないようにすると、ふとした瞬間に浮かんでくる。

厄介だ。

ほんの少しだけ、視線を上げた。

───やめようと思っていたのに。


青砥さんは、いつも通りだった。
背筋を伸ばして画面に向かい、指は迷いなく動いている。表情にも、変化はない。
誰がどう見ても、普段と同じだ。

昨日の夜なんて、存在しなかったみたいに。

……いや、違う。

よく見れば、一度もこちらを見ない。
それが偶然じゃないことくらい、私には分かる。

───意識して、見ないようにしている。

そのことに気づいた瞬間、喉の奥がわずかに詰まった。
このまま見ていたら、自分の方が先に崩れる。

視線を落として、仕事に戻る。
数字を追って、文章を整える。いつものように。

でも、気づけばまた視線が上がっていた。
だめだと分かっているのに、確認してしまう。

……やっぱり、見ない。

そこまで徹底されると、逆に意識しているのが分かってしまった。