正しくない恋のはじまり

青砥さんはすぐに答えなかった。

ただ、一歩だけ距離を詰める。
その一歩で、さっきまで遠ざかっていたはずの存在が、一気に現実に引き戻される。

「帰るつもりでした」

低い声でつぶやいた彼は、私から目を背けていた。

「……戻らない方がいいとも思いました。ここで線を引いた方が、あなたのためにもなる」

いつもの、正しい判断。間違っていない。
分かっているのに、どうして。

「───それでも、」

彼はわずかに、息が揺れていた。

「……戻ってきてしまったので」

ほんの少しだけ混じる、彼の自嘲。初めて見る。
その曖昧さが、逆に胸を苦しくさせた。


青砥さんは、考えているというよりも言葉を探しているみたいに、わずかに沈黙する。

「…僕にも、よく分かりません」

静かに落ちた言葉は、言い訳でも説明でもなくて、ただの事実みたいに響いた。

その一言で、胸の奥がほどけて、同時に崩れる。

「……どうして…」

抑えていたはずのものが、こぼれる。

「どうして、そんなこと言うんですか……」

自分でも、何を責めているのか分からない。
ただ、今までずっと一定の温度で接してきたはずのこの人がそういうことを言うのが、ずるいと思った。

私は立ち上がり、こぼれる涙を自分で拭った。

そっと、彼が少しだけ近づく。
でも、触れない。
その距離が、余計に苦しい。