正しくない恋のはじまり

「無理に言わなくていいです」

青砥さんは私に配慮しているわけでも、気遣っているわけでもなく、ただやけにはっきりと続けた。

「言葉になってない段階で出すと、潰されます」

その言葉で、はっとする。
そうか。だから、言えなかったのか、と腑に落ちてしまった。

「ただ、」と彼がポケットから手を出して今度は腕を組んだ。

「言葉にできるようになったら、止めないでください」

その一言が、胸の奥にまっすぐに落ちる。

“止めないで”なんて───誰も、そんなこと言ってくれなかった。

止めるのが普通だった。
飲み込むのが正解だった。
それが、大人だった。
それが、仕事だった。


考えがまとまらないまま、返事をするのが遅れてしまった。
一拍置いてから、

「……はい」

と、声が少し震えてしまったものの、小さくうなずいた。


もう隠せない。
でも、彼はいつものように踏み込んでこないし、引き上げもしない。ただ、そこにいる。

それだけ。
それだけなのに、なぜか呼吸が少し楽になった。

「……失礼します」

私はなるべく温度を乗せずにそう言い、やっとこの場から抜け出した。

一歩下がって、彼に背を向ける。
歩き出した足はまだ不安定だったけれど、崩れてはいない。
まだ大丈夫だ。


自分のデスクに戻り、今度はちゃんと画面を見た。

同じ資料に、同じ数字。同じ形をしている。
それでも、さっきよりは少しだけ輪郭が浮かんでいた。

指先を、キーボードに置いて見下ろす。
震えはまだ残っている。

だけど、もう───止まっちゃだめだ。