正しくない恋のはじまり

息つく間もない数分後。

「藤井さん」

と、青砥さんに名前を呼ばれた。
今度は、正面から現れた。逃げ場がなくなる呼び方だった。

「……はい」

逃げられるわけもなく、顔を上げた。
青砥さんの視線が、まっすぐこちらを捉えていた。

逸らせない。そういう目をしていた。

「少し、いいですか」

「……はい」

応じるしかないこの状況。ゆっくりと立ち上がった。

足が重いのは、気のせいじゃない。
ちゃんと重い。
だけど、それを認めたら動けなくなってしまうから、いつも通りに歩いた。
揺れてなんかいない、と見せるために。


移動したのは、窓際のスペースだった。
人の気配はあるのに、会話は届かないくらいの、離れた場所。
それは守られているようで、逃げ場のない場所でもあった。

青砥さんは壁に寄りかかり、ポケットに手を入れていた。
私は、少し距離を取って止まる。

近すぎず、遠すぎない。絶妙な距離。
その距離が、余計に意識してしまった。


「……どうですか?」

彼の問いは、傍から聞けば曖昧なものだったと思う。
でも、何を聞かれているのか、私には分かった。

仕事のことだけじゃなく、さっきのやり取りや、今の状態のことを聞いているのだ。

「問題なく進んでます」

反射みたいにすぐに答えてしまった。

これは、用意していた言葉だった。
安全な言葉でもあり、正しい言葉でもあり、───でも自分の言葉じゃないもの。