正しくない恋のはじまり

「───お疲れ様です」

背後から声が聞こえてきた。
その一言で、全部が止まる。

指も、呼吸も、思考も。
ゆっくり振り返る。

青砥さんだった。


その姿を見た瞬間、胸の奥で、何かが小さく揺れる。
安心───じゃない。

でも、ひとりじゃない、と一瞬でも思ってしまう自分がいた。
それが、いちばん困る。

「……お疲れ様です」

声が、少し遅れてしまった。
自分でも分かる。ほんの一拍だけど、それだけで崩れたみたいに感じてしまう。


青砥さんは、何も言わない。
でも、見られている。“その遅れ”ごと。すべてを。

「戻りました」

ただの、短い報告だった。

それだけなのに、空気が変わった。
さっきまでの軽さが突如として消える。整っていたはずの世界が、わずかにズレる。
ほんの少し。でも、確実に。


この少ないやり取りを終えて、私は画面に視線を戻した。

なるべく彼を見ないようにした。
そうすればするほど、意識が不思議なくらいに後ろに引っ張られてしまう。

見られている気がする。
いや、“見られている”んじゃない。見抜かれている気がする。

さっきのやり取りも、今の手の動きも、この中途半端な状態も。
彼ならば、全部を見透かす。