正しくない恋のはじまり

彼は、黙ってこちらを見ている。
評価するみたいに。
試すみたいに。

数秒の沈黙。その沈黙が、やけに長い。


「…聡明な方ですね」

ソファの背もたれに身を預けて、彼が不意にそうつぶやいた。
褒められているのに、まったく嬉しくない。

むしろ、全部見透かされたあとに線を引かれたみたいで、その言葉だけが嘘みたいだ。

「ありがとうございます」

それでも、この人の前では笑うしかない。
形だけでも、崩してはいけない。


彼は、少しだけ視線を外した。

「無理に整えようとしない方がいい」

ぽつりと、不意に優しい声音。
驚いたけれど、作戦のうちかもしれない。だから、そういうのが一番信用できない。

「ご心配には及びません」

即答する。少しだけ、強く。


外されたはずの彼の視線がまた私へと戻ってきた。
今度は、ほんの少しだけ柔らかい。

「そうですか」

それだけ言って、彼は立ち上がるとドアの方へ向かった。


止めない。
止める理由も、ない。

ドアに手をかけたまま、彼が一度だけ振り返る。

「藤井さん」

彼との時間もやっと終わると思って安堵していたのに、名前を呼ばれて心臓がまた跳ねた。

「全部が“仕事”で片付くなら、それでいいと思います」

否定も、肯定もしていない、あの話し方だった。
ただ、そこに置いていくだけの言葉。

「…失礼します」


ドアが閉まる。バタンという音がやけに大きく響いた。