正しくない恋のはじまり

「……なんで」

声が、思ったより小さい。

「なんで私、こんなことやってるんだろ…」

しゃがんで、そっと何度も自分の胸を撫で下ろす。

───通すため。
───進めるため。
───評価されるため。

全部、正しい、はず。


「……違う」

ぽつりとこぼれた、本当の気持ち。
違う。何かが、ずっと違う。

昨日の夜の自分を思い出す。
“引き返せないな”と、思った自分。

踏み込んだはずなのに。
今やっているのは、その逆だ。

削って削って削って。整えて、見えなくしている。


喉の奥が、少しだけ痛む。

でも、泣かない。泣くほどのことじゃない。泣いたらだめだ。

まだ、大丈夫。
まだ、耐えられる。

ゆっくりと息を、吸って吐く。もう一度。
それを何度か繰り返して、顔を上げた。

手すりから手を離す。


「……戻ろう」

自分に言い聞かせるみたいに、つぶやいた。

足を動かして、一段、上る。また一段。

扉の前で、少しだけ立ち止まる。
その向こうにある、いつものオフィス。

白い光。
整えられた資料。
“問題のない世界”。


ドアノブに手をかけた。一瞬だけ、力が止まる。
でも───そのまま、押した。