正しくない恋のはじまり

指先に、わずかなためらいが生まれる。
…けれど、結局、開いた。

「藤井」

名前を呼ばれて、肩が微かに揺れてしまった。
顔を上げると、部長が立っていた。

「昨日の資料、確認した」

その一言で、胸の奥がきゅっと縮む。

「いい出来だな」

軽く言われる。本当に、何でもないことみたいに。

「このまま出そう」

これは、決定だ。部長からすれば、ひとつの案件の通過点。
当然、迷いはない。

「……ありがとうございます」

声が、少しだけ遅れて出る。
自分の声なのに、少し遠くにあるような妙な感覚。

「三浦さんも問題ないって言ってたよ」

その名前に、無意識に視線が動いてしまった。
少し離れた席で、三浦さんがちょうどこちらを見ていた。タイミングが良すぎるくらいに。
目が合い、あちらは柔らかく笑っていた。

「助かります」

口の形だけで、そう言われた気がした。


───“助かります”って?
誰が?何が?
問いは浮かぶのに、言葉にはならない。


胸の奥で不安だけが音を立てているけれど、部長は言うだけ言って、去っていってしまった。