正しくない恋のはじまり

彼は急がない。
こちらが口を開くのを、待っている。

───嫌なひと。

「……ご用件を、伺ってもよろしいですか?」

仕方なくこちらから先に口を開いた。
間を与えてはいけない気がしたからだ。


彼は私の問いかけに対し、わずかに目を細めた。
一瞬だけ、何かを測るような間が落ちる。

毛先が、わずかに揺れた。
その一瞬だけ、自分の輪郭が曖昧になる気がした。

「見えていないふり、してますよね」

ふっと投下してきた主語のない、短いたったそれだけの言葉に、心臓が強く跳ねる。

一瞬、呼吸が止まる。
それでも───

「何のことでしょうか」

声は、揺らさない。

完璧に整えた、いつもの自分。今ここでできるのは、仮面をかぶること。

彼は少しだけ首を傾ける。
この仕草、苦手だ。

息がしづらくなってきたのを、なんとか気取られないようにすることで精一杯だった。

「このプロジェクトの数字、きれいすぎると思いませんか?」

穏やかな口調ではあるが、問いかけているようで、すでに結論を持っている言い方。