正しくない恋のはじまり

「……これ、どうするの」

誰もいないのに、問いかけてしまった。

その問いに、もちろん答えはない。
画面の中の数字だけが、静かに並んでいる。


『三浦さんには、深入りしない方がいい』
『違和感があるなら、そのままでいい』

頭の中で、青砥さんの二つの声が重なる。
もうそこに、あの三浦さんの言葉はなかった。

正反対のようで、どこか似ている彼の言葉。


私は一度、手を止めた。
視線が自然と動く。

いつも彼が座っているデスク。
……いない。分かってる。

今日は、いない日なんだ。

それでも、見てしまう。
何もない空間を見て、小さく息を吐いた。

「……自分で、やるしかない」


もう一度、画面に向き直った。

カーソルが点滅している。待っているみたいに。
私は、ゆっくりと再びキーボードに指を乗せた。

修正案を入力する。リスクや予測できる事態を書き出す。
影響範囲を整理していく。

誰にも頼まれていない作業。
だけど、止める理由もなかった。


気づいてしまった以上、なかったことにはできない。

カタカタ、と音が続く。
さっきまで遠く感じていたオフィスの音が、少しずつ戻ってきた。

時間が、ゆっくり流れていく。
気づけば、最初に感じていた重さは少しだけ薄れていた。


代わりに残ったのは、
───逃げていない、という感覚。


最後にファイルを保存した。
名前をつける指が、一瞬だけ止まる。

それから、
“_check”と、小さく付け足した。


画面を閉じて、共有フォルダには入れずに、自分のローカルにだけ残した。
静かな証拠みたいに。

パソコンを閉じると、部屋の音が少しだけ大きくなった気がした。


私は椅子の背にもたれて、ゆっくり深呼吸した。


───まだ、何も終わってない。

ただ、このまま流されるだけじゃだめだ。
そう思えたことが、少しだけ救いだった。