正しくない恋のはじまり

「藤井さんは、どこまで把握してるんですか?」


静かな声だった。
問い詰められているわけでもないのに、逃げ場がない。

「……何のことですか」

分かっているくせに、そう返すしかなかった。
ほんのわずかな沈黙のあとで、彼が小さく息を吐く。

「そうやって、全部“仕事”で片付けるんですね」

責めるような口調じゃない。
むしろ逆。穏やかで、やさしい。

だからこそ、胸の奥をまっすぐに刺される。


これじゃだめだ。
このままだと、彼のペースに巻き込まれる。

「違います、私は───」

急いで言いかけた言葉が、途中で止まる。

何を否定しようとしたのか、自分でも分からなかった。
“仕事だから”で済ませてきたはずなのに。
どうして今だけ、それが通用しないんだろう。


彼はそれ以上、何も言わない。
ただ、こちらを見ている。少しだけ目を細めて。
笑っているようにも見えるのに、まったく温度がない。

逃げることも、誤魔化すことも、全部見透かされているみたいに。

───怖い。

それなのに。
なぜか、最初からこうなる気がしていた。


そのときの私はまだ、
この人が何を壊しに来たのか、知らなかった。