ホームルームが終わる頃には夕焼けで空がオレンジ色に染まっていた。
飲み物とゼリー、パンを買って自転車で茜の家に向かう。茜の家は由麻の家より学校から近く、五分ほどで到着した。
邪魔にならない場所に自転車を止め、カゴの中に入ったスーパーの袋を持って玄関に向かうと、見知った顔が先に立っていた。「あ」と互いの声が重なる。
由麻と同じように、スーパーの袋を持って先に立っていたのは長瀬だ。学校の最寄りのスーパーの袋を見て、店被った、と思った。
「茜のお見舞い?」
「おー。由麻ちゃんも?」
「うん。もしかして食べ物買ってきた?」
「ポカリと水とパンとうどん」
「被った……」
買った中身も被っている。食欲のないインフルエンザ患者に大量の食料を押し付けるような形になってしまうのでは、と少し気が引けた。
長瀬は「多い分にはいいだろ」と笑ってインターホンを押した。しばらくして、インターホン越しに『はい』と茜ではない女性の声がする。
「僕たち、茜さんの学校の同級生です。お見舞いに来ました」
『ああ……はい、ちょっと待ってね』
おそらく茜の母親だろう。ばたばたと足音が近付いてきたかと思えば、玄関のドアが開かれる。予想していたよりも派手な女性だった。明るい金髪に、濃いメイク、長い爪、大きめのピアスとネックレス。服もお洒落だ。着飾るのが好きそうだ。
「来てくれてありがとう。これはあたしから渡しておくわね。会わせてあげたいところだけど、感染症だからね……」
茜の母は申し訳なそうに由麻たちから袋を受け取る。
「……あの、できればなんですけど、この後も、茜に熱がある間はできるだけ茜の傍にいてほしいです」
由麻は茜の母を見据えて言った。
「中学の時、茜、球技大会の時にバスケでぶつかっちゃって。骨折したの覚えてますか?」
「ああ……そんなこともあったわね」
「茜、あの時全然そんな素振り見せなかったんです。痛くても、打ち上げ終わるまでにこにこしてました。皆帰って、私と二人になった時にようやく、めっっっちゃ痛いって騒ぎ出したんです」
「…………」
茜の母が、はっとしたように黙り込む。
「茜は空気読むし、気遣い上手です。その分自分のことは二の次だし、身近な人に助けてってなかなか言ってくれない。傷付いてる人が傷付いてる顔してることは稀なんです。平気そうに見えて平気じゃない時だってある。茜のこと、簡単に大丈夫だって思わないでほしいです」
由麻は最後まで言い切ってから深々と頭を下げる。
「よろしくお願いします」
隣で、長瀬も頭を下げていた。
「俺からも、よろしくお願いします」
しばらくして、茜の母が「顔を上げて頂戴」と言った。由麻と長瀬が顔を上げる。すると、茜の母は少し悲しげに微笑んでいた。
「ありがとう。茜のことを大切に思ってくれて。甘えみたいなことを言うけど、あたしはとっくに自分のキャパシティを超えるくらい働いていたみたい。忙しくて茜のちょっとしたサインに気付かなかった。今思えばあれはもしかしてって思うことあるの。なのに余裕がなくて……」
茜の母はそこまで言って顔を覆い、ずずっと鼻水を啜る。泣くのを堪えているようだった。
「お友達に、こんなに心配させちゃうなんて、親失格ね」
由麻も長瀬も何も言わず、涙を必死に呑み込む茜の母を見守っていた。
結局茜には会えず、茜の母と話すだけで帰ることになった。長瀬の隣を歩きながら、ちらりと長瀬の横顔を見る。茜の家を離れてから、長瀬はずっと無言だ。いつもお喋りな長瀬がここまで静かなのは珍しい。
かと思えば、「っあ~~~」と言いながら頭を掻き始めた。何だこいつ、と様子を観察していると、長瀬が勢いよくこちらを向いた。
「由麻ちゃん、やっぱかっけーね。俺大人相手にあんな風に言えねぇもん」
「茜のお母さんだからだよ。授業参観とかで話したことあるんだ」
「話したことあっても、こういう内容は物怖じしちゃうだろ。……俺、ちょっと情けねぇかも。俺よりずっと男前だな、由麻ちゃんは」
長瀬はきまりが悪いらしく、少し俯く。由麻はそんな長瀬を励ました。
「長瀬くんもありがとう」
「何が。俺、何もできてねぇよ」
「茜の傍にいてくれたから」
「…………」
駅の手前で、長瀬が急に立ち止まる。
「由麻ちゃん、あのさ」
真剣な表情でじっと見つめてくる長瀬の目が、いつもと違う色を孕んでいてどきりとした。
「……いや、やっぱ何でもねぇ。今言うことじゃなかったわ」
長瀬は言いかけた言葉を途中で止めて歩き始めた。由麻は怪訝に思いながらその後に続いて改札を抜ける。由麻たちの乗る電車が来るまであと五分ほどある。
「文化祭もうすぐだよな。六組はもう話進んでんの?」
「今日のホームルームで出し物は決まったよ。文化祭実行委員も……」
由麻が嫌なことを思い出してどんよりしていると、それに気付いた長瀬が何故か楽しそうに食いついてくる。
「もしかして、由麻ちゃん、実行委員に選ばれたりした?」
「そうだよ。ちょっとめんどくさい……」
「俺も! 実行委員」
「ええ? 長瀬くんも?」
「だってやりたがる人いねぇんだもん。じゃあ俺がやるかって思って。由麻ちゃんいるならちょっと楽しみになってきたわ」
長瀬は急に上機嫌になってニコニコしている。その表情はいつもと違って少し子供っぽくて、このギャップにやられる女子は後を絶たないだろうと思った。
しかも、実行委員になったのも由麻のようにくじ引きで決められたというわけではないらしい。他にやる人がいないから率先してやるという献身っぷりと良心。長瀬が人気な理由がここにも隠されている気がした。
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その夜、由麻は文芸部の課題に取り掛かった。実行委員になったこともあり、今後は今よりも忙しくなってくるだろう。やるべきことは早めにやった方がいい。
しかし、久しぶりに文章を書くということもあり、なかなか内容が思い浮かばない。そもそも書くより読む方が好きなのだ。感想文であれば書けるのだが、顧問から来ている課題についてのメッセージを読み返す。
『課題内容を下記から選んで作成してください。
創作小説(お題自由、短編可)・エッセイ・短歌・自由形式の詞』
由麻は部屋の椅子の背もたれに背を預けた。古い椅子なのでぎしりと嫌な音がする。
(短歌か……)
シャーペンを持ち直し、ペン先を紙の上でゆらゆらと揺らした。
その瞬間、頭に浮かんだのは、バックミラー越しに見た宇佐と、宇佐の彼女である香夜が抱き合っている姿だ。胸がきりきりと刻まれるような痛みがする。
「失恋の歌なら、書けたりして」
自嘲気味に呟いた。
そして、ペンを走らせる。紙の上に書き殴り、文字数調整や言葉選びをしているうちに、日付が変わっていた。
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週明け、学校中は茜と長瀬が別れたという話題で持ちきりだった。長瀬が独り身になったことに沸き立つ女生徒たち、「長続きしないと思ってたんだよね~」などと知った風に語る生徒たちの声を何度も聞いた。
茜はずっとインフルエンザで休んでいて今日が久しぶりの登校なので、直接会って話し合ったわけではないだろう。茜から何も聞いておらず、一体何がどうしてそうなったのだろうと少し不安を覚えながら茜と話せる休み時間を待っていた。
「フったんだ」
一時間目が終わった後、茜がオレンジジュースをストローで飲みながらあっさりと言った。どうやら茜の方から別れを告げたようだ。しかし、それでも疑問は残る。
「……何で? 長瀬くんのこと好きなんでしょ?」
「好きだけど、いっぱい寄りかかって迷惑かけちゃったから。これ以上は一緒にいられないよ」
切なげに笑う茜を見て、茜の揺るがない決意を感じたので、それ以上何も言わなかった。
茜は飲み終わったジュースのパックを潰してゴミ箱に捨てて言った。
「あたし、学生寮に入るかも」
学生寮は、学校の敷地内の駐車場の近くに立っている建物だ。家賃がかなり安く、他県から受験した生徒など実家が遠い生徒が一人暮らしで利用する。
「入れるの? 茜、家結構近いよね。学校から」
寮は本来、家から距離に応じて遠い者から優先的に取る。自転車で行ける距離に家がある茜では難しいのではないかと思った。しかし、茜は笑ってピースする。
「ちょうど冬に転校する予定の生徒がいて、部屋一つ空くらしいんだよね。もしかしたら入れるかも」
しかし、部屋が一つ空いたところで、他の家が遠い生徒が申請したら茜は通らなくなってしまう。
寮に入ることができれば茜は兄からの暴力から逃げられる。でもそんなにうまく行くだろうかと心配になっていると、由麻の心情を察したらしい茜が微笑む。
「言いたいことは分かるよ。現実的じゃないよね。でも、いざとなったら逃げ道があるってだけで救われるんだ。心がね」
「そっか。なら、応援する」
「インフルエンザで休んでた期間ね、熱自体は二日くらいで下がったから暇で、ママと沢山話したんだ。今度録音するから聞いてほしいって言ったら、あたしの本気度が伝わったみたいで色々聞いてくれた。ただうちは片親だから、なかなかママがずっと家にいるってことは難しくて。だからあたしが一人暮らしするのはどうかって話になったの。そうなったら家賃はあたしが払うからってお願いした。マンションよりは寮の方が安いから、今寮を狙ってるって感じ」
「……そうなったら、よかったら、私と同じバイトする? まだ人員募集してるって言ってたよ」
「えー! ほんと!? コーヒー店でバイトとか憧れだったかも~! あたし、バイトとかしたことないからちょっと不安なんだけどね」
「うちは優しい人ばっかりだよ。昼にシフト入れてる人でちょっと怖い人がいるみたいな話は聞いたことあるけど、高校生には優しいらしいし。ドリンクの作り方覚えるのがちょっと大変ってくらいかな」
茜に少しでも希望を持たせようと、バイト先のコーヒーチェーン店について紹介した。
そして、茜が一人暮らしを始めた場合家に残される茜の兄のことも気がかりだったので一応聞いてみる。
「お兄さんの薬はどうなるの?」
「お兄ちゃんについては、今担当医の先生とか支援センターに相談してる。あと、お兄ちゃん、一応昼間は職場に行ってるんだけど……あ、職場ってお兄ちゃんくらいの障がい持ってる人が集まって作業する場所ね。そこの人に頼んで薬飲んだか確認してもらおっかなーって話もあるよ。何か、多分お兄ちゃんが攻撃的なのって特にあたしに対してだけなんだよね。職員さんなら話聞いてもらえるかも。何でか分かんないけど。多分、あたしのことは下に見てるんじゃないかな?」
あはは、と頭を掻きながら冗談っぽく笑う茜は、これまでどれだけの苦しみや痛みに耐え続けてきたのだろう。
「これまで気付いてあげられなくてごめんね」
「あたしが隠してたんだから、由麻が謝ることじゃないでしょ!」
茜が大袈裟に顔の前で手を横に振って否定する。その様子は何だかいつもより明るくて、少しだけ前向きになれたのかなと思った。
「それより、由麻、実行委員になったんだって? 何かあったら手伝うからね! あたしこう見えて力持ちだし、ダンボールとか運べるよ」
茜が力こぶを作ってバシバシと叩く。
「それは助かる……。でも誰から聞いたの?」
「長瀬くんから。電話で別れ話して、その後に聞いた」
「どんなタイミングで私の話してるの……。そこはもうちょっとしんみりした感じで思い出話とかした方がいいのでは」
「え~? でも長瀬くん、別にあたしのこと本気で好きなわけじゃないっぽかったしなぁ。友達に戻ったって感じ」
「……友達か。やっぱりそれが一番良いのかもね」
由麻はぽつりと呟いた。
何度も脳内で繰り返される、抱き合う宇佐と香夜の姿。一緒にいるところはこれまで何度も見てきたが、あんな姿はさすがに初めて見た。ダメージが未だに続いている。
(いっそ、宇佐さんへの恋心を忘れてしまいたい。本物の友達になれたらいい。そのためには、私が恋心を捨てなきゃ)
恋がこんなに心がひりつき痛むものだと、由麻は初めて知った。遠くから見ていた時はもっと、穏やかで温かい気持ちだったはずのそれは、宇佐に近付くごとに凶暴になり、由麻の心臓を切り刻んでくる。
恋心を隠し通して、友達として傍にいられたら幸せだと思っていた。でも今幸せなんてことは全然なく、むしろ苦しくなっていっている。
「……由麻は、宇佐くんと何かあったの?」
「…………」
「一緒にカラオケに迎えに来るくらいだから、あたし、宇佐くんと付き合ったのかなってちょっと思ったんだけど……もしかしてそうでもない?」
「うん。あの人は私なんか好きにならないよ」
はっきり言い切った時、次の授業の担当教員が教室に入ってきたため、茜との会話は中断された。



