シザー・フレンズ・バタフライ


 その時、視線を感じた。振り向くと由麻の母親が気まずそうにそこに立っている。母は、品のある小綺麗な服装とばっちりメイクのままだ。いつも家に帰るとすぐメイクを落としているため、仕事帰りにそのまま寄ってくれたことが窺える。

「ごめんなさい……。聞くつもりなかったんだけど、あまりに遅いし連絡返ってこないから心配で」

 母は遠慮がちに言い、手招きして駐車場へと歩き始める。祖母からもらったであろう大きな丸いピアスが母の耳元で揺れた。

「とりあえず、ここで長話もあれだし、車に入ろっか。他の二人も家まで送るわ」

 由麻と茜もそれに続いた。茜はまだ啜り泣いており、必死に自分を泣き止ませるように何度も目を擦っている。

「ちょっと由麻、茜ちゃん以外のもう一人って男の子だったの? 男の子のお友達なんて初めてじゃない?」

 茜と並んで歩く由麻に、母がこそこそと小声で言ってくる。やや後方を歩いている宇佐に聞かれてしまうのではないかと焦り、口の前で人差し指を立ててしーっと黙るようアピールした。これまで男っ気のなかった由麻に男友達ができたのが面白いのか、母は車に着くまでニヤニヤしていた。
 由麻は助手席に、茜と宇佐は後部座席に乗り込む。茜はようやく少し泣き止んでいた。母は茜と宇佐から住所を聞いてカーナビに入力した。

「茜ちゃん、さっきの話だけど」
「――は、はい」

 車のエンジンをかけながら、母が茜に話を切り出す。茜の声音が一気に緊張したのが分かった。
 触れにくい部分であるはずなのに、あっさりと話題にしてきた母にぎょっとする。母の、いや、大人の強さを感じる。

「一度、お兄さんとの会話を録音してみたらどう? 今はスマホの録音アプリもあるでしょう」
「……でも、家族を録音するなんて」
「茜ちゃんに実害が出ている以上、お母さんやお医者さんの協力が必要よ。お兄さんの状態を専門家に伝えるためにも、分かりやすいものが必要だわ」

 母は車を運転し、由麻の家とは逆方向に走る。まず茜の家へ向かっているようだ。

「家庭内の問題を、家庭内で解決できることって少ないのよ。頼れるところに頼るのが大事。特に、専門家にね」

 車が赤信号で止まる。茜は黙って母の話を聞いていた。

「うちのおじいちゃんもアルコール中毒で一時期大変だったのよ~。癌で五年前に死んだんだけどね。ねえ、由麻?」

 母が笑いながらちらりと由麻に目配せする。由麻は昔祖父に散々暴言を吐かれたことや、辛そうにしていた祖母のことを思い出して嫌な気持ちになった。

「ああ……あの飲んだくれじじい……」
「あはは、ほら、由麻はおじいちゃんのこと嫌いだったの。茜ちゃんもこれくらい嫌悪感抱いててもいいのよ。もちろん本人じゃなくて病気が悪いのはそうなんだけど、周囲も大変だからねえ。吐き出せる時は吐き出しちゃいなさい」
「……ありがとうございます……」

 茜は小さな声でお礼を言う。バックミラー越しに様子を見ると、また俯き、声を押し殺して泣いているようだった。

 しばらくして茜の家に着いた。茜の家はどの部屋も電気がついておらず、暗く寂しそうに見える。
 車を道の端に寄せて止めた母は、最後に茜にこう言った。

「じゃあね、茜ちゃん。お兄さんの暴力がエスカレートしたらすぐ警察に電話するのよ」
「警察……でも、家庭内の問題なのに大袈裟じゃないでしょうか」
「大袈裟じゃないわ。茜ちゃんは被害を受けてるの。ちゃんと助けを求める資格がある」

 茜は黙り込み、しばらくした後ゆっくりと頷く。そして、「送ってくれてありがとうございました」と呟いて車を出ていった。
 窓を開けて、家に向かう茜の後ろ姿に向かって言う。

「私たち、茜の味方だから」
「……うん」
「怖い時は、私の家に泊まってもいいから」

 茜がこちらを振り返り、深々とお辞儀をした。

「由麻、ありがとう。宇佐くんも、由麻のお母さんも、ありがとう」

 完璧に救うことは難しいかもしれない。でも、茜が一人じゃないことだけでも伝えられた。それだけでも、今日茜に会いに行ってよかったと思った。


 茜が家に入っていくのを見届けてから、車はまた走り出した。

「茜ちゃん、何だか久しぶりな気がしたわ。中学の時はよくうちに来てたよね」
「そうだね。高校生になってからは外で遊ぶようになったから……」

 赤信号で止まり、母が次の住所をタップする。カーナビが示しているのはこの辺りでは有名な、比較的高級な住宅街だ。

「あらあ、この辺? ええっと、宇佐くんだっけ。お金持ちなのねえ。親御さん何してるの?」

 母が感心したように言う。親が何をしているかなんてプライベートな情報を聞くのは悪い気がして、慌てて「お母さん」と軽く注意した。
 しかし後ろの宇佐は気にしていないようであっさりと答える。

「母は勤務医です」
「あら、お医者さん。お忙しいでしょう。お父さんは?」
「父はいません。母子家庭なんです。三年前、両親が離婚しました」
「あらあら、そうなの。離婚率って何だかんだ結構高いらしいしねえ」
「ちょっとお母さん、人の家のこといきなり聞くのは失礼だよ」
「いいよ、由麻。由麻と由麻のお母さんになら知られてもいい」

 しんっと一瞬車内が静まる。宇佐にそんなつもりはないのだろうが、その言葉は本当に思わせぶりに聞こえて、顔が熱くなっていくのを感じた。

(夜で良かった……)

 車内は暗い。赤くなった顔をミラー越しに見られなくて済む。隣の母がニヤニヤしている気配を感じながら、黙って車に乗っていた。

『百メートル先、右です』

 宇佐の家に近づくにつれて、カーナビの機械音がする。車が右に曲がり、宇佐の家が見えてきたその時――母が「きゃあっ」と高い悲鳴を上げた。
 車のライトに照らされたその先、髪の長い女性が宇佐の家の前に立っていたのだ。こんな時間に人が道路に突っ立っているのは珍しい。髪の長さも相まって何だか恐ろしく見えた。

「な、なんだ。人か。びっくりした~。お母さん昨日ホラー動画観たばっかなのよね。あはは」

 母は自分を落ち着かせるように笑った後、道に車を止める。目の前に立っている女性の顔がゆっくりとこちらに向いた。
 その顔を見て驚いた。――宇佐の彼女である、香夜だ。暗がりで見ると何だか痩せこけて見える。その目に生気がないように感じられて、由麻はごくりと唾を飲み込む。
 ミラー越しに見る宇佐は無表情だった。

「……宇佐さん、香夜さんと待ち合わせしてたの? ごめん、遅くなって」
「いや。待ち合わせはしてないよ。待ち伏せされてたって方が正しいかな。まあ、いつものことだから」

 宇佐は淡々と言って車を出ていこうとする。
 いつものことだから特に驚いていないのか、予測していたから驚いていないのか。口ぶりからして、おそらくその両方だ。

「――宇佐さん、大丈夫?」

 思わず振り向いてそう聞いてしまった。
 出ていこうとしていた宇佐の手が止まる。そして、その顔がゆっくりと由麻の方に向けられた。数秒の沈黙が走る。
 ふと、しばらく動かずにいた宇佐の顔が、窓の外を見て強張った。そちらを見れば、さっきまで前方に立っていた香夜が窓から宇佐を覗き込んでいる。
 香夜の口が動いた。車内なので外の音が聞こえづらいが、唇の動きとわずかに聞こえる声で何と言っているのか理解できた。

――……「その人たち、誰?」だ。

 暗いせいか香夜の表情が不気味に見える。美しい分、この世の者ではないようにも感じられるのだ。
 宇佐が「送っていただきありがとうございました」と少し早口で言い、車のドアを開ける。そのドアは勢いよく閉められた。

 その後、母の車がゆっくりと走り始めた。

「……あの子、宇佐くんのお姉さん? すごい美人ね」
「あの人は、宇佐さんの彼女」
「え? ……あー……ああ、そうなんだ。あんたも悲しい恋してるのね」
「恋とかじゃ、ないよ」

 バックミラー越しに、降りていった宇佐と香夜を見る。道の真ん中で、宇佐が香夜を強く抱き締めていた。

「……宇佐さんは、ただの友達」

 友達でなければならない。だってあの人は、あんなに愛しそうに香夜に触れる。あんなに、彼女のことが好きなんだから。



 :

 その後二日間、茜は学校を休んだ。家まで送った後何かあったのかと心配したが、欠席理由はまさかのインフルエンザだった。母親が久しぶりに仕事を休んでくれて、病院までは行けたらしい。
 38.5度の体温計の写真が送られてきて、『これ、昨日の夜の熱! ズル休みの時に使えそうじゃない? フリー素材だから由麻も使っていいよ』なんてふざけたメッセージも付いていた。それを見てちょっと笑ってしまった。
 ある程度下がったものの、熱はまだ続いているようだ。放課後に病人でも食べやすいようなゼリーや飲み物を買って茜の家に寄ろうと思った。

「来月はいよいよ中高の文化祭だ。今日は文化祭実行委員と、このクラスでの出し物を決める。委員長、前に出てきて」

 ――そう思っていたのに、用事がある日に限って、帰りのホームルームに長引きそうな話題が持ち込まれた。
 桜ヶ丘付属高等学校では中等部と合同で毎年十一月下旬に文化祭が行われる。大学祭は別にあり、中高の文化祭とは二週間先に開催される。

(もうそんな時期か……)

 六組の委員長と副委員長が前に出て、生徒たちから出た意見を黒板に書いていく。お化け屋敷やたこ焼き屋など、他のクラスとも被りそうなアイデアもあれば、ウォータースライダーなど準備の残り期間を考えると実現可能性が低いものも上がってくる。
 ある程度候補が上がったところで、多数決で手を挙げることになった。意見はお化け屋敷と割れたが、結局、一番手を挙げる人の数が多かった射的に決定した。

「はい、じゃあ出し物は射的ですね~。景品とかについてはまた話しましょー。次、文化祭実行委員、やりたい人いますかー」

 さっきまでの騒がしさから一変、教室内が急に静まり返った。案の定、誰も手を挙げない。
 由麻にも気持ちは分かる。文化祭実行委員というのはかなりの激務だ。しかも、各クラスから一名。二名ならまだ楽しみようもあるかもしれないが、文化祭実行委員になったが最後、実行委員の仕事にばかり手を取られて折角の文化祭をクラスメイトとあまり過ごせないことになる。去年もなかなか決まらなかった。

「くじ引きにしましょうか」

 これではいつまでも決まらないと感じたらしい副委員長がスマホを取り出し、グループにくじ引きアプリで作ったくじ引きのURLを送る。

(私も一応文化部だし、部活でもやることがあるから、当たりたくないな……)

 文芸部所属では、詞でも短編小説でも何でもいいので、文化祭で展示するものを一作は出さなくてはならない。顧問からのお知らせは一週間前にあったが、作品自体はあまり進んでいなかった。
 緊張しながらくじ引きの結果を見ていると、『当たり!』という明るいオレンジ色のメッセージが画面に表示されていた。

(運、悪……)

 一クラス四十人中の、たった一つを引き当ててしまった。

「ええっと、江藤さんね。ごめんね。もし大変なこととかあれば声かけてくれたら、私も手伝いますから、言ってくださいね!」

 委員長が同情して気遣ってくる。由麻は「頑張ります……」と心配させないよう前向きな言葉を言っておいた。
 黒板に書かれた〝文化祭実行委員〟という丸い字の下に、〝江藤由麻〟と由麻の名前が書き足される。
 今年の文化祭は、忙しくなりそうだ。