バイト先のコーヒーチェーン店に入ったところで、この店には頻繁に桜ヶ丘大付属の生徒がやってくることを思い出し、店内を見回した。またあらぬ噂をたてられ、宇佐が誤解されるのは嫌だ。
キョロキョロしていると、宇佐が見透かしたように言ってくる。
「来ないよ。うちの高校の生徒は」
精度の高い予測ができる宇佐がそう言うなら安心だ。由麻はほっとし、注文のためレジへと進んだ。
「別に俺は、他人にどう思われてもいいしね」
「宇佐さんが良くても、私は嫌だよ」
店内は今日も混んでいて、レジ前はなかなかの行列だ。夏休み中はたまにシフトが被っていたお姉さんが忙しなくドリンクを作っている。二学期が始まってからは見ていないので、少し久しぶりに感じた。
「どうして?」
「友達だから」
即答できた。すると、宇佐がゆるりと口角を上げる。
「やっぱり今日は俺が奢るよ」
「いいよ。宇佐さんバイトしてないでしょ」
私の方がお金には余裕があるから、とアピールしたかったのだが、宇佐はちょっと得意げに返してきた。
「株で結構稼いでるんだよね」
「株……。凄いね。でもなんかそれ、いいのかな」
宇佐ほどの予測能力がある者が株になんか手を出したら、無双だ。何だかいけないことを聞いてしまったような気持ちになる。
「俺の能力は俺のものなんでしょ。由麻が言ったんだよ」
悪戯っ子のように笑う宇佐にドキドキしているうちに順番が来た。見知ったお姉さんは私を見て少しにやりとしていた。チャイラテとホットコーヒーを割り引きしてもらった後、二人用の席を取ってそこに座る。
店内用のグラスのぎりぎりまで注がれたチャイラテを一口飲んだ後、宇佐に切り出した。
「今日、長瀬さんから茜のこと聞いた」
「知ってる。そろそろ限界だろうなとは予測してた」
「……やっぱり、宇佐さんは長瀬さんのことを心配してたんだね」
「あいつは色んな人を元気づけようとするからね。でも結局それで自分のことを追い詰めてる。自分のキャパシティを理解してない。他人の痛みを背負うのには限度があるのに」
宇佐は手元のホットコーヒーを飲もうとして、「あち」とすぐにカップを口から離した。真っ黒なコーヒーからはまだ湯気が出ている。
「長瀬さんは凄いよ。私、茜が背負ってるものを教えてもらえてすらない」
「俺の予測では、由麻は今後も教えてもらえないよ」
「…………」
「クリスマスの直前に、吉澤茜と長瀬は別れる。精神的に不安定な女の子とずっと一緒にいるのは、正直疲れるものだから。長瀬の方も我慢できなくなる」
「茜はどうなるか聞いてもいい?」
「問題なく大人になっていくよ。抱えているものを抱えたまま。ただ、吉澤茜はそれまでよりも他人に期待しなくなる。長瀬に勝手に期待して勝手に裏切られた気分になって、その後誰とも付き合わない」
由麻は黙ってチャイラテの液面を見下ろした。
誰しも何かを抱え、悲しみと向き合い、大人になっていくのだろう。茜が由麻に弱音を吐かない選択をするのなら、そこに踏み込む権利は由麻にはない。
言ってしまえば、何かに追い詰められている人間なんて世の中には沢山いる。茜もその一人というだけだ。以前のような死に関わるようなことでない限り、静観するのが正しいことのような気もした。
(伝えてもらえないなら、私にできることなんて……)
諦めかけたその時、教室で喋った長瀬の、悲しげな顔を思い出す。
――……『由麻ちゃん、茜のこと救える?』
長瀬は救おうとしていた。
その事実に衝撃が走る。自分と長瀬の明確な違いを感じた。
由麻は何だかんだ他人との間に見えない境界線を引いている。しかし、長瀬は違う。相手を受け入れるし、相手のパーソナルな部分に入ることを躊躇しない。それが長瀬の長所であり、長瀬に友達が多い理由なのだろう。
――他人に踏み込めないのは、自分との間に線を引くのは、由麻の長所であり、弱さでもある。
「……私、悲しかったんだ」
ぽつりと呟いた。
「茜に何も教えてもらえないことにショックを受けてた。中学からずっと一緒にいるのに何も言ってもらえなかったならもう無理じゃんって」
ぐいっとチャイラテを一気に飲み干す。口の中に濃厚な甘みが残った。
「凄いよね、長瀬さんは。きっと踏み込んだんだ。拒絶されるのを恐れずに」
初めて会話してからたった数ヶ月の、他クラスの女の子の深い部分に入り込んだ長瀬のことを、心から尊敬する。
「宇佐さん、私キャラ変する」
「キャラ変?」
「長瀬さんみたいになる」
「由麻が長瀬みたいになるのは無理だと思うけど」
「ひどい……」
「由麻には由麻の良さがあるってことだよ」
宇佐はそう言って、コーヒーカップを片手にちらりと腕時計に視線を落とした。
「あと十五分くらいゆっくりしたらこの店出ようか。吉澤茜の塾が終わる時間だ」
茜は確か、木曜日は塾の自習室に籠もっていると言っていた。いくらラプラスの悪魔があるとはいえそこまで分かるとは、と少し驚く。
「暗いから俺も一緒に行くよ」
「……付き合ってくれるの?」
「うん。ちょうど未来が変わり始めた。由麻が改変した未来を見てみたい」
宇佐は頬杖をつき、ちょっとだけ悲しげに笑った。
「やっぱり由麻は、俺には眩しいな」
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最近は日が落ちるのが早くなっており、外はもう真っ暗だ。車通りの多い道路沿いにある学習塾はまだ光を放っている。
いきなり会いに行くのもはばかられるので、茜には『会いたいから行くね』とだけ連絡しておいた。いつも返信が早いのになかなか既読が付かない。
夜は肌寒いので手と手を合わせて擦っていると、宇佐が自動販売機で買った温かいお茶を渡してきた。
「それで手、あっためて」
「……うん。ありがとう」
どうしよう、と思う。こんな時だというのに宇佐への恋心が加速する。
(前はもっと穏やかな気持ちでいられたのに)
ただ遠くから見ているだけの時期は、宇佐のことを見られるだけで幸せで、その宇佐が幸せになればいいと穏やかに願っていた。なのに今は、感情が昂ぶることばかりだ。荒波に当たっているかのように落ち着いていられない。
その時、茜へのメッセージに既読が付いた。しゅぽっと独特の受信音がする。
『え! 今外にいるってこと? すぐ降りる!』
いつも通り、ビックリマークの多い明るい返事だ。その様子にほっとしながら、階段の下で茜を待った。
数秒後、だんだんと階段を下りてくる音が聞こえた。もうマフラーをしている茜が由麻に向かってくる。そして、由麻の隣にいる宇佐を見て驚いた顔をした。
「何で由麻と宇佐くんがここに……」
戸惑いを隠せない様子の茜に、まず何を言っていいか分からない。
「えっと……遊びに行かない?」
出てきたのはそんな、本題から逃げるような情けない言葉だった。やはり、いきなり踏み込むのは由麻には無理だった。
「今から?」
「うん。今から」
「補導されちゃうよ」
「補導されてから帰ればいいよ」
「由麻、いつからそんな不良に!?」
茜はまだ少しびっくりしているようだが、由麻の発言を聞いてケラケラ笑う。
由麻は宇佐を振り返って聞いた。調べるよりも宇佐に聞く方が早いと思ったから。
「宇佐さん、これから遊べる場所ってある?」
「近くのカラオケが高校生は午後十時までだね」
「じゃあそこに行こう」
そのカラオケならここから徒歩圏内だ。すると、茜が目をキラキラさせた。
「あたし、こんな時間から遊んだことないかも。わくわくする」
由麻もこんな時間から遊びに行くのは初めてだ。母親には前もって連絡してある。『帰りは迎えに行くから』と返事があった。
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高校生割り引きがあり、少し安く一時間コースを取ることができた。ジュースとポテトとからあげを頼んだ由麻たちは、そこからずっと歌い続けた。歌い続けたと言っても、歌っているのはほぼ茜だ。由麻は流行りの楽曲を知らないので、茜が歌う歌を聞いて学んだ。
ワンドリンク制だったが、由麻にはさっき宇佐にもらったお茶があるので、頼んだオレンジジュースは茜に譲った。宇佐はリンゴジュースを飲みながら、無表情で茜の歌を聞いている。
『由麻と宇佐くんも次歌いなよ! あと四十分しかないよ! 早く予約して!』
間奏中、マイクを通して茜が急かしてくる。歌はそこまで得意でないのだが、仕方なく中学の合唱会で歌った、知っている曲を予約した。宇佐にも促すと、「何が聴きたい?」と聞いてくるので、昔母の車で流れていた曲の名前を伝える。古いので知らないかと思いきや、宇佐は「ああ」と納得したように曲名を検索した。
(宇佐さんは知らないことの方が少ないんだろうな)
ちょっと感心しているうちに茜が歌い終わる。九十点。なかなかの高得点なのではと思って褒めたが、茜は「いや、これは採点甘いやつだから!」と謙遜していた。
その後、由麻と宇佐も一曲ずつ歌った。由麻も宇佐も歌うより聞く方が楽しいタイプなので、残りの時間は茜に譲った。
(宇佐さん、歌うまかったな……)
勉強もできて歌も上手。彼に弱点はないのだろうかと思った。
時間になると呼び出しの電話がかかってきた。コップをテーブルの上に纏めてから個室を出た。
咄嗟に遊びに誘ってしまったが、今日の本題はそこではない。宇佐も付き合わせてしまっていることだし、早めに切り出さなければという焦りが生まれる。
カラオケの料金を払って外に出ると、母から『駐車場で待ってるよ~』と連絡が来た。茜と、もう一人同じ学校の生徒が一緒にいることは伝えてある。母は二人も家まで送ると言ってくれていた。
駐車場に向かいながらいつ本題を切り出そうと悩んでいるうちに、ぴたりと茜が歩を止めた。振り返ると、茜は俯いている。
「…………帰りたくない……」
茜は立ち止まったまま動かない。
「楽しかった。このままずっと由麻と遊んでたい」
その瞳から、ぽろぽろと涙が溢れていた。びっくりして駆け寄る。
「どうして帰りたくないの?」
「あたしのママ、夜も働いてて。帰ってくるの朝なんだ。朝も店で寝てて帰ってこないことあるの」
「一人が嫌ってこと?」
「一人じゃない。一人だったらもっといい。うちには、兄がいる」
茜に四つ上の兄がいるというのは聞いたことがある。とっくに大学進学などで家を離れているものと思っていたが、まだ同居しているらしい。
茜が泣きながら打ち明けてきた。
「お兄ちゃん、発達障がいなの。物は投げるし、多分自分の衝動を抑えるのが苦手ですぐ暴力振るってくる。体だけ大きくて力もあたしより強いから抵抗できない。ママの前では何でか大人しくて、ママも分かってくれない。ママは昔からお兄ちゃんに付きっきりだったから、そのせいであたしがヤキモチやいて気を引こうとしてそんなこと言うんだって思ってる。あたしは大丈夫、あたしは健康だから平気って思ってて話聞いてくれない。だからあたし、朝はできるだけ早く家を出て、夜は自習室で時間潰してできるだけ遅く帰る」
――茜がずっと長袖を着ているのは、リストカットの痕を隠したいからだけでなく、兄からの暴力の痕を隠したいからというのもあったのかもしれない。
「お兄ちゃんのことはママが定期的に精神科に通わせてるけど、薬飲んでくれないし、あたしが飲んでって言ったら指図するなって怒ってくる。でも飲ませなきゃいけないから嫌でも話さなきゃいけなくて、そのたび暴言浴びせられて暴力振るわれて……あたし、たまにお兄ちゃんがいなくなればいいのにって思うんだ。そんなこと考える自分が嫌になる。お兄ちゃんが悪いわけじゃないの分かってる。お兄ちゃんの特性だってこと分かってる。でもあたし、お兄ちゃんさえいなければ、もっと家にいやすいのかもって……っ最低だよね、最低だよね。最低だよね。あたし自分のこと大嫌い」
こんなに泣いている茜を見るのは初めてだ。由麻は咄嗟に茜を抱きしめた。
「話してくれてありがとう。怖かったよね」
「結局、言っちゃった。相談したってどうしようもないこと話して由麻を困らせたくなかったのに」
「困ってないよ。教えてくれて嬉しいよ」
「嘘だよ。あたしの負の部分ぶつけたら、相手は嫌な気持ちになる。だからあたしはいつも能天気で明るくいなきゃだめなの。長瀬くんだって最近、あたしが家の愚痴言い出すとちょっと疲れたみたいな顔する。長瀬くんのこと優しいから利用してる。長瀬くんのこと好きだった気持ちは本当のはずなのに、長瀬くんを思いやれてない。あたしだけが寄りかかってる。都合の良い感情のはけ口にして、我が儘言って付き合ってもらって同情してもらって――あたしは、自分の弱い部分でしか他人の気を引けないようなあたしが大っ嫌い」
いつも明るくて気遣い上手で人を笑顔にすることができる茜が、自分のことを嫌いと言った。人は見かけによらない。茜は大きな自己嫌悪を背負って生きているのだ。今もずっと。
「――二人で考えよう」
茜の背中を擦りながら言う。
「一人で背負わないで。そう簡単に解決できることじゃないかもしれないけど、私にだって話を聞くことはできる。茜が負の部分をぶつけてきても私は何も思わない。隠される方が苦しいよ。茜は一人じゃない」
「う……っうう……っ」
「……一応、俺もいるよ。ろくに喋ったことないし、頼りにならないかもだけど」
それまで黙って聞いていた宇佐が口を開いた。茜は泣きながら顔を上げて宇佐を見ると、「ありがとお~~~全然関わりないのに気使わせてごめんなさい~~~あたし最悪~~~」と大きな声で言ってもっと泣き始めた。
人通りの少ない夜の道路に茜の泣き声が響く。子供のように泣き続ける茜を、通りすがりの大人たちがちらちら見てくる。その視線から庇うように、由麻は茜を抱きしめ続けた。



