翌日の放課後、結衣は視聴覚準備室の前で一度だけ立ち止まった。
昨日も入った部屋なのに、今日は少しちがって見える。録音係として来たからだろうか。扉の向こうにある机も、マイクも、小さな機材も、ただの道具ではなくて、自分がちゃんと使わなければいけないものとして並んでいる気がした。
「お、来た来た」
先に来ていた真帆が、椅子の背に腕をかけたまま手を振る。
その横では、律が機材の確認をしていた。机の上には小型の録音機、マイク、コード、メモ用紙。全部がきちんと整えられていて、それだけで結衣の肩が少しこわばる。
「これ、クラス用」
律はそう言って、小さな録音機を結衣のほうへ差し出した。
結衣は両手で受け取る。思ったより軽い。軽いのに、その重さが妙に手に残る。
「保存先だけ間違えなければ大丈夫。録音押して、終わったら停止。必要なら取り直しで」
「……うん」
「押すだけなら簡単」
律は淡々と言ったあとで、少しだけ間を置いた。
「難しいのは、その前だけど」
結衣は顔を上げる。律はもうケーブルをまとめるほうへ視線を戻していた。冗談みたいな言い方ではない。ただ、知っていることをそのまま言っただけの声だった。
真帆が横からのぞき込む。
「その“押すだけ”が一番緊張するんだけど」
「……わかる」
思わず返すと、真帆がぱっと顔を向けた。
「今しゃべった」
「しゃべるけど」
「いや、しゃべるけど、今のちょっと自分からだったから」
真帆はくすっと笑う。からかわれているほどではなく、でも軽く持ち上げられたみたいで、結衣はそれ以上何も返せなかった。
最初に録ることになったのは、同じクラスの男子だった。友達に半分押されるみたいにして準備室の前まで来て、「え、マジで今?」と落ち着かない様子で立っている。
「大丈夫だよ、二十秒くらいだから」
「それが無理なんだって」
真帆が笑って場をやわらげる。
結衣は録音機を持ったまま、その会話の横に立っていた。
押すだけなら簡単。
確かに、機械としてはそうだ。赤いボタンを押せば始まるし、もう一度押せば止まる。兄のレコーダーだって、そうやって使ってきた。手順だけなら、むしろよく知っているはずだった。
けれど今、結衣の手の中にあるのはまるで別のものみたいだった。
兄のレコーダーは、自分の声を置いていくためのものだった。返事のない相手に、今日のしんどさを置いていくだけの場所。
でもこれは違う。
目の前にいる誰かの声を受け取るための機械だ。
それが急に怖くなった。
「朝倉さん、お願いできる?」
真帆に言われて、結衣ははっとする。
自分が黙っているあいだに、相手の男子はさらに落ち着かなくなっていた。
「えっと……」
結衣はマイクを少し持ち上げた。
でも、その先をどうしたらいいのかわからない。
話してください、でいいのか。
誰に向けてですか、と聞くべきか。
緊張しなくて大丈夫です、みたいなことを言ったほうがいいのか。
考えているうちに、数秒が過ぎる。
その数秒が、体感よりずっと長く感じられた。
男子が苦笑する。真帆が「ごめんごめん、なんかこっちまで緊張してきた」と明るく笑ってくれる。
けれど結衣には、自分の沈黙だけがひどく目立った気がした。
「……じゃ、じゃあ、どうぞ」
ようやく出た声は、自分でも驚くほど小さかった。
男子は「え、どうぞって」と笑いかけてから、少し真面目な顔になる。
「じゃあ……母ちゃん、いつも、えっと」
そこで止まる。
「あー待って、これ無理。なんか急に恥ずい」
真帆がすぐに「はい一回停止ー」と声をかけ、空気が少しほどける。
結衣はあわてて停止ボタンを押した。押すタイミングが少し遅れて、不要な沈黙まで録音されてしまった気がして、胸の奥がきゅっと縮む。
「ごめん」
「いや、朝倉さんが悪いわけじゃないって」
男子はそう言ってくれたけれど、結衣の耳にはあまりまっすぐ入ってこなかった。
二回目は、真帆が先に少し雑談をしてくれた。家でどんなお弁当が好きかとか、母の日に何かしたことあるかとか、そんな軽い話をいくつか挟んでから、「じゃあその感じで言ってみよっか」と自然に流す。
そのあとで結衣が録音を押すと、今度はさっきより短くまとまった声が取れた。
「母ちゃん、いつも弁当ありがと。あと、朝起こしてくれて助かってます」
言い終わったあと、男子は「うわ、無理、消して」と耳まで赤くした。
真帆が笑う。
律は波形を確認して、「今のなら大丈夫」と短く言う。
結衣はそのやりとりを見ながら、胸の奥にうっすら疲れがたまっているのを感じていた。
たった一人録っただけなのに、こんなに消耗するとは思わなかった。
押すだけ。
たしかに、機械を動かすだけなら簡単だ。
でも、人の声を受け取るのは簡単じゃない。
相手が何を言おうとしているのか、どこで詰まっているのか、どうしたら少し話しやすくなるのか。そういう見えないものまで、一緒に預かる感じがした。
真帆は「あと何人いけるかなあ」とプリントを見ながら明るく言っている。
律は静かに機材を整え直している。
結衣は手の中の録音機を見下ろした。
兄のレコーダーと同じように、ボタンはひとつしかない。
なのに、その向こうにあるものはこんなにも違う。
結衣はその日初めて、“聞く”にも勇気がいるのだと知った。
昨日も入った部屋なのに、今日は少しちがって見える。録音係として来たからだろうか。扉の向こうにある机も、マイクも、小さな機材も、ただの道具ではなくて、自分がちゃんと使わなければいけないものとして並んでいる気がした。
「お、来た来た」
先に来ていた真帆が、椅子の背に腕をかけたまま手を振る。
その横では、律が機材の確認をしていた。机の上には小型の録音機、マイク、コード、メモ用紙。全部がきちんと整えられていて、それだけで結衣の肩が少しこわばる。
「これ、クラス用」
律はそう言って、小さな録音機を結衣のほうへ差し出した。
結衣は両手で受け取る。思ったより軽い。軽いのに、その重さが妙に手に残る。
「保存先だけ間違えなければ大丈夫。録音押して、終わったら停止。必要なら取り直しで」
「……うん」
「押すだけなら簡単」
律は淡々と言ったあとで、少しだけ間を置いた。
「難しいのは、その前だけど」
結衣は顔を上げる。律はもうケーブルをまとめるほうへ視線を戻していた。冗談みたいな言い方ではない。ただ、知っていることをそのまま言っただけの声だった。
真帆が横からのぞき込む。
「その“押すだけ”が一番緊張するんだけど」
「……わかる」
思わず返すと、真帆がぱっと顔を向けた。
「今しゃべった」
「しゃべるけど」
「いや、しゃべるけど、今のちょっと自分からだったから」
真帆はくすっと笑う。からかわれているほどではなく、でも軽く持ち上げられたみたいで、結衣はそれ以上何も返せなかった。
最初に録ることになったのは、同じクラスの男子だった。友達に半分押されるみたいにして準備室の前まで来て、「え、マジで今?」と落ち着かない様子で立っている。
「大丈夫だよ、二十秒くらいだから」
「それが無理なんだって」
真帆が笑って場をやわらげる。
結衣は録音機を持ったまま、その会話の横に立っていた。
押すだけなら簡単。
確かに、機械としてはそうだ。赤いボタンを押せば始まるし、もう一度押せば止まる。兄のレコーダーだって、そうやって使ってきた。手順だけなら、むしろよく知っているはずだった。
けれど今、結衣の手の中にあるのはまるで別のものみたいだった。
兄のレコーダーは、自分の声を置いていくためのものだった。返事のない相手に、今日のしんどさを置いていくだけの場所。
でもこれは違う。
目の前にいる誰かの声を受け取るための機械だ。
それが急に怖くなった。
「朝倉さん、お願いできる?」
真帆に言われて、結衣ははっとする。
自分が黙っているあいだに、相手の男子はさらに落ち着かなくなっていた。
「えっと……」
結衣はマイクを少し持ち上げた。
でも、その先をどうしたらいいのかわからない。
話してください、でいいのか。
誰に向けてですか、と聞くべきか。
緊張しなくて大丈夫です、みたいなことを言ったほうがいいのか。
考えているうちに、数秒が過ぎる。
その数秒が、体感よりずっと長く感じられた。
男子が苦笑する。真帆が「ごめんごめん、なんかこっちまで緊張してきた」と明るく笑ってくれる。
けれど結衣には、自分の沈黙だけがひどく目立った気がした。
「……じゃ、じゃあ、どうぞ」
ようやく出た声は、自分でも驚くほど小さかった。
男子は「え、どうぞって」と笑いかけてから、少し真面目な顔になる。
「じゃあ……母ちゃん、いつも、えっと」
そこで止まる。
「あー待って、これ無理。なんか急に恥ずい」
真帆がすぐに「はい一回停止ー」と声をかけ、空気が少しほどける。
結衣はあわてて停止ボタンを押した。押すタイミングが少し遅れて、不要な沈黙まで録音されてしまった気がして、胸の奥がきゅっと縮む。
「ごめん」
「いや、朝倉さんが悪いわけじゃないって」
男子はそう言ってくれたけれど、結衣の耳にはあまりまっすぐ入ってこなかった。
二回目は、真帆が先に少し雑談をしてくれた。家でどんなお弁当が好きかとか、母の日に何かしたことあるかとか、そんな軽い話をいくつか挟んでから、「じゃあその感じで言ってみよっか」と自然に流す。
そのあとで結衣が録音を押すと、今度はさっきより短くまとまった声が取れた。
「母ちゃん、いつも弁当ありがと。あと、朝起こしてくれて助かってます」
言い終わったあと、男子は「うわ、無理、消して」と耳まで赤くした。
真帆が笑う。
律は波形を確認して、「今のなら大丈夫」と短く言う。
結衣はそのやりとりを見ながら、胸の奥にうっすら疲れがたまっているのを感じていた。
たった一人録っただけなのに、こんなに消耗するとは思わなかった。
押すだけ。
たしかに、機械を動かすだけなら簡単だ。
でも、人の声を受け取るのは簡単じゃない。
相手が何を言おうとしているのか、どこで詰まっているのか、どうしたら少し話しやすくなるのか。そういう見えないものまで、一緒に預かる感じがした。
真帆は「あと何人いけるかなあ」とプリントを見ながら明るく言っている。
律は静かに機材を整え直している。
結衣は手の中の録音機を見下ろした。
兄のレコーダーと同じように、ボタンはひとつしかない。
なのに、その向こうにあるものはこんなにも違う。
結衣はその日初めて、“聞く”にも勇気がいるのだと知った。
