きみの録音ボタンが消えるまで

 その夜、結衣は宿題を広げたまま、ほとんど手をつけられなかった。

 ノートの上にシャーペンを置いたまま、視線だけが何度も机の端へ滑っていく。そこには、さっきからずっとレコーダーが置かれていた。古い液晶画面は暗く、押せばまた兄の声が出てくることだけを静かに知っているみたいだった。

 結衣はしばらく迷ってから、イヤホンを耳に差し込んだ。

 再生ボタンを押す。

 最初は、何もないように聞こえた。
 正確には、無音ではない。服がかすかに擦れる音と、机に何かが触れる小さな音が入っている。部屋の中で録った音らしい。外の風も足音もなく、そのぶん兄の息づかいだけが近く感じられた。

「……母さん、ごめ――」

 そこで止まる。

 結衣は思わず画面を見た。
 再生はまだ続いている。止まっていないのに、兄のほうが先に言葉をなくしている。

 少しの沈黙。
 それから、兄が小さく息を吐く音。

「いや、違うな」

 言い直す声は、思っていたより低かった。
 ふざけてもいないし、笑ってもいない。結衣の知っている兄の声なのに、いつもよりずっと慎重だった。

「その……この前のこと、なんだけど」
「……ちがうな」
「ちゃんと話したいんだけど」

 また止まる。

 結衣はベッドの端に座ったまま、膝にレコーダーを置いていた。イヤホンのコードが少し引っ張られて、耳に浅く触れているのに、それを直すことも忘れて聞き入ってしまう。

 兄は、こういうふうに言葉に困る人だっただろうか。

 結衣の中の兄は、もっと軽やかな人だった。
 母との空気が少し重くなれば、すぐに別の話題を持ち出して笑わせる。結衣が何か言えずに固まっていれば、「じゃあ俺が言う」と先に動いてくれる。何かを頼まれても迷う前に「いいよ」と返せる人。そういう、考えるより先に言葉が出てくる人だと思っていた。

 でも今、イヤホンの向こうにいる兄は違う。

 言葉を選んでいる。
 間違えないように、逃げないように、ひとりで練習しているみたいだった。

「母さん、俺……」
「その、別に……いや、そうじゃなくて」

 結局、文は最後までまとまらない。
 謝ろうとしているのか、相談しようとしているのか、それすらきれいにはわからなかった。ただ、兄がちゃんと何かを伝えようとして、何度も出しかけた言葉を引っ込めていることだけははっきりわかった。

 それが、結衣にはひどく意外だった。

 兄も、こんなことあるんだ。

 そう思った瞬間、胸の奥で何かが小さく揺れた。
 兄は何でもできる人だと思っていた。少なくとも、言葉についてはそうだった。結衣みたいに、言う前に詰まったり、何が正しい言い方なのか迷ったりしない人だと。

 けれど録音の中の兄は、自分と同じ場所に立っていた。

 言いたいことはあるのに、うまく形にならない。
 言えないままにしたくないのに、言葉の順番が見つからない。
 だから、一度録ってみる。
 何度でも言い直してみる。

 その不器用さが、結衣には少しだけ信じられなかった。

 兄だって、最初からできたわけじゃなかったんだ。

 そう思うと、何かがほどける気もしたし、逆に、兄を少し遠くへ置いていた自分に気づいて苦しくもなった。兄はずっと“頼れる人”の形でしか記憶していなかった。そのかげで、兄自身がどんなふうに迷っていたかなんて、考えたこともなかった。

 イヤホンの奥で、小さなため息がひとつ入る。

 それから、録音は唐突に終わった。

 結衣はすぐに停止ボタンを押せなかった。
 終わってしまったあとの無音が、さっきまでの兄の迷いごと部屋に残しているみたいで、むやみに触れてはいけないものに思えたからだ。

 兄は、何でも言える人だったんじゃない。
 言えないままにしないために、こうして声にしていた人だったのかもしれない。

 結衣はレコーダーを両手で持ち直し、膝の上で小さく握った。

 完成していない言葉のほうが、思い出の中の笑っている兄より、ずっと近く感じた。