きみの録音ボタンが消えるまで

 翌日の放課後、視聴覚準備室には、使われていない教室特有の少し冷たい空気がたまっていた。

 窓には半分だけカーテンが引かれていて、春のまだ白い光が、床の上に四角く落ちている。前の机には録音用の小さなマイクと、メモ用紙と、クリップで留められた説明プリントが並んでいた。

 結衣は教室の入口で一度だけ足を止めてから、中へ入った。

 真帆はすでに来ていて、椅子をくるりと回しながらプリントを見ている。

「うわ、ちゃんと機材ある。なんか一気に逃げたくなるんだけど」

 真帆がそう言って笑う。
 結衣も、ほんの少しだけ口元をゆるめた。

「……わかる」
「お、今しゃべった」

 からかうというより、うれしそうな言い方だった。結衣はそれ以上何も返せず、机の端にそっと手を置いた。

 少し遅れて担当の先生が入ってくる。明るい声で「集まったな」と言いながら、前の机にプリントを広げた。

「じゃあ説明するぞ。今回のテーマは『ありがとうを声で届けよう』です。家族でも、友達でも、先生でもいい。短い言葉でもいいから、自分の声で伝えること」

 その言い方が、結衣には妙にまぶしかった。

 自分の声で。

 それは、できる人には何でもないことみたいに聞こえる。けれど結衣には、たったそれだけの条件がいちばん難しかった。

 先生はプリントを指でなぞりながら続ける。

「一人あたり二十秒前後。長すぎても短すぎても編集しにくいから、そのくらいを目安にしてくれ。録音する相手は自由だけど、名前を出すときは相手が困らないようにな。クラスごとに何件か集めて、昼休みの放送で流す」

 二十秒。

 短い、と結衣は思う。
 けれどすぐに、その短さこそ怖いとも思った。二十秒しかないなら、余計なことは言えない。ごまかす時間もない。本当に伝えたいことだけが、そのまま残ってしまう。

「録音の場所は、空き教室かこの準備室を使ってください」

 低めの声がして、結衣はそちらを見た。

 部屋の奥で機材を触っていた男子が顔を上げる。放送委員の篠田律だと、昨日の説明で知ったばかりだった。

「廊下は雑音入るので、なるべく避けてください。あと、一回でうまく録れなくても問題ないです。何度か録り直して大丈夫です」

 言葉数は少ない。でも、必要なことだけをちゃんと選んで言っている感じがした。

 真帆が小声で結衣に寄る。

「二十秒って、短いのに逆にむずくない?」
「……うん」
「しかも“ありがとう”限定でしょ。なんか急に本気っぽい」
「うん」

 結衣はまた同じ返事しかできなかった。
 でも真帆はそれでも十分みたいに、ふっと笑って前を向く。

 先生はさらに、「自分の分を録ってもいいし、録らなくてもいい」と付け足した。

「声って、文字より気持ちが伝わるからな。ちょっと照れくさいかもしれないけど、こういう機会にちゃんと口にしてみるのも悪くないぞ」

 その言葉に、結衣の胸の奥が少しだけ縮む。

 文字より、気持ちが伝わる。

 そんなの、結衣には怖いことみたいに聞こえた。
 文字ならまだ考える時間がある。消して、直して、少し違う形にすることもできる。けれど声は、出した瞬間に相手へ届いてしまう。震えも、ためらいも、たぶん全部そのまま乗ってしまう。

 兄のレコーダーに吹き込むときだけ、自分は話せる。
 でもそれは、返事をもらわなくていい相手だからだ。

 生きている誰かへ向けて、自分の声で何かを届けるなんて。
 考えただけで喉が少し苦しくなる。

「じゃあ、まずは各自で何人か候補を考えて、来週までに録音進めていこう。何かわからないことがあれば篠田か俺に聞いてくれ」

 説明はそれで終わった。

 プリントを受け取る列がゆっくり動き出す。真帆は自分のぶんを持って、ざっと目を通したあと、小さく息をついた。

「ねえ、朝倉さん」
「……なに」
「これ、自分も録る?」

 結衣はプリントの文字に視線を落としたまま、すぐには返せなかった。

 誰に言うの。
 何を。
 どうやって。

 そう考え始めると、胸の中に昨日聞いた兄の声まで重なってくる。

「……まだ、わかんない」
「そっか。まあ私も、やるにしても一回笑って終わる気しかしないけど」

 真帆はそう言って肩をすくめた。その軽さに少しだけ救われる。
 結衣はようやく、小さく息を吐いた。

 視聴覚準備室を出るとき、背後で機材のスイッチを切る小さな音がした。部屋の中の空気が、その音と一緒に少しだけ静かになる。

 ありがとうを声で届ける。

 短い言葉ほど、うまく言えないことを、結衣はもう知っていた。