きみの録音ボタンが消えるまで

 その夜、結衣はレコーダーを持ったまま、兄の部屋の前で立ち止まっていた。

 廊下の電気は少し暗い。ドアの下から光は漏れていない。当たり前だ。この部屋の明かりが自分でつくことは、もうないのだから。

 それでも結衣は、すぐには通り過ぎられなかった。

 兄の部屋は、二年前からほとんど形を変えていない。

 母が掃除だけはしているから埃っぽくはない。けれど、きれいすぎるぶんだけ、時間が止まったままみたいに見える。カーテンの色も、壁際の本棚も、机の上に揃えられた参考書も、兄が「あとでまたやるから」と言って立ったきり戻らなかった場所みたいだった。

 結衣はそっとドアを開ける。

 夜の部屋は静かだった。窓の外の街灯の色が、カーテンのすきまからうっすら床へ落ちている。机の上のペン立て。背もたれにかかったままのパーカー。床の隅に揃えられたスニーカー。

 どれも、兄がいないことしか教えてくれない。

 結衣は部屋の中へ入るでもなく、入口のところに立ったままイヤホンを耳に差し込んだ。

 再生ボタンを押す。

 ざあ、と小さく風が鳴る。
 靴音。
 服の擦れる気配。
 それから兄の声。

「……あ、やば。今の録れてる?」

 部屋の空気が、その瞬間だけ少し揺れた気がした。

 もちろん、本当に揺れたわけじゃない。カーテンは動いていないし、机の上の紙もそのままだ。けれど結衣には、止まっていたこの部屋の時間が、たった一秒だけ動き出したみたいに思えた。

 兄の声は近い。
 思い出の中にいる兄より、ずっと近い。

 写真を見ても、兄は黙ったままだ。
 机に置かれたペンを見ても、パーカーのしわを見ても、兄がここにいたことはわかる。でも、それは全部「いた」という形でしか残っていない。

 声だけが違った。

 声は、「いた」ではなく「いる」に近い顔をしてしまう。

 結衣はドア枠に肩を預けたまま、目を閉じた。

 兄が部屋の奥から顔を出して、「何してんの」と笑うかもしれない。そんなこと、あるわけないのに、一瞬だけ本気でそう思ってしまう。

 その想像に、自分で驚く。

 机も、本棚も、壁に貼ったままの古いポスターも、兄のいない現実を静かに置いているだけだ。
 なのに、イヤホンから流れる声は違う。少し乱暴で、少し軽くて、今さっき録ったみたいな雑な温度がある。そのせいで、結衣の中の線引きが、一瞬だけ曖昧になる。

 兄はもういない。
 でも、声だけがそれを遅らせる。

 再生が終わる。
 無音が戻る。

 結衣はすぐにイヤホンを外せなかった。

 さっきまで声があった耳の奥に、いまは部屋の静けさだけが広がっている。その落差がひどく大きく感じられて、何もないはずの空間が逆に重くなる。

 もう一度聞けば、また兄の声がここへ戻ってくる。
 そう思った瞬間、結衣は胸の奥で小さく身をすくめた。

 こんなふうに何度も聞いてしまったら、だめなのかもしれない。
 だめだと思うのに、聞きたい気持ちのほうが強い。

 結衣はゆっくり目を開ける。

 暗い部屋の中で、兄の机だけがぼんやり輪郭を持っていた。そこへ兄が座って、机に肘をついて、くだらないことをしゃべり出しそうな気がする。そう思えるのは、物じゃなくて声が残っていたからだ。

 部屋はずっと、いない人の部屋だった。
 声だけが、二年遅れで帰ってきたみたいだった。

 結衣はレコーダーを胸の前で握り直す。

 兄のいない家。
 でも、兄のいる音。

 その矛盾の真ん中に、自分が立っているのだと、その夜初めてはっきり思った。