きみの録音ボタンが消えるまで

 停止ボタンを押したあとも、結衣の指はしばらくそのまま動かなかった。

 液晶の小さな光だけが、暗い部屋の中でぼんやり浮いている。
 さっきまで聞こえていた兄の声はもう止まっているのに、耳の奥ではまだ同じ言葉が残っていた。

「……あ、やば。今の録れてる?」

 たったそれだけ。
 たったそれだけの、なんでもない声だった。

 なのに、胸の奥に残る重さは、もっと長い言葉よりずっと大きかった。

 結衣は息を詰めたまま、もう一度再生ボタンを押した。

 ざあ、と風の音。
 靴が地面を踏む音。
 服の袖が擦れるような小さな気配。

 そのあと、兄の声。

「……あ、やば。今の録れてる?」

 今度は、さっきより落ち着いて聞けると思った。
 でも実際には逆だった。二度目のほうが、声の輪郭がはっきりしてしまう。少し早口なところも、笑いそうになる前に息が混じるところも、全部、兄そのものだった。

 結衣はレコーダーを持つ手に力を入れる。

 思い出の中の兄の声は、もっと遠かった。
 もう少しきれいで、もう少しやさしくて、記憶の中で少しずつ輪郭をなくしていた。
 けれど今聞こえている声は違う。
 記憶よりも近くて、雑で、生きていたころのままの温度があった。

 再生が終わる。
 短い。拍子抜けするくらい短い。

 それなのに、結衣はすぐに停止できなかった。
 無音になった部屋が、急に広くなりすぎた気がしたからだ。

 また聞きたい。

 そう思った瞬間、結衣は自分が少しこわくなった。
 兄の声を聞いて、悲しいと思う前に、安心してしまったからだ。

 安心。

 その感情の名前がわかった途端、胸の奥に鈍い痛みが走る。

 兄はもういない。
 それは、ずっと知っている。
 写真を見ても、部屋の前を通っても、母が何も言わない夕食の時間でも、そのことは嫌というほどわかっていた。

 なのに今、レコーダーの中から聞こえてくる声は、その“いない”を一瞬だけ曖昧にしてしまう。

 いるみたいだ、と思ってしまった。

 結衣は唇を噛む。
 そんなふうに思うのは、ずるい気がした。
 もう戻らない人を、声だけで勝手にここへ引き戻して、自分だけ少し楽になろうとしているみたいで。

 けれど、指はまた再生ボタンを押していた。

 三回目。
 四回目。

 同じ風の音。
 同じ靴音。
 同じ兄の声。

 何も変わらないはずなのに、聞くたびに少しずつ違うところが耳に残る。
 「やば」の言い方が少し照れたみたいだったこと。
 言い終わったあと、誰かが近くにいたのか、少しだけ声を潜めていること。
 笑い方が、思っていたより子どもっぽかったこと。

 忘れていなかったはずなのに。
 忘れたくないと思っていたはずなのに。

 結衣は、その声を聞いて初めて、自分がどれだけ細部を失っていたのかに気づく。
 兄の顔は思い浮かぶ。
 笑った顔も、怒った顔も、歩く後ろ姿も。
 でも声だけは、思い出そうとするといつも少し曖昧だった。

 今、その曖昧だったものが、急に近くなる。

 結衣の目から、そこでようやく涙が落ちた。

 泣きたかったのかどうか、自分でもわからなかった。
 涙は勝手にこぼれて、頬を伝って、顎の先で小さく揺れた。

 でも、涙より先にあったのは、やっぱり安心だった。

 兄の声がある。
 この部屋に。
 手のひらの中に。

 そのことが、たまらなくうれしかった。

 うれしいと思ってしまったことが、同じくらい苦しかった。

 結衣はレコーダーを胸の近くまで持ち上げる。
 抱きしめるわけでもなく、ただ、少しでも近い場所に置きたかった。

 もう一度だけ。

 そう思って再生した声は、さっきまでとまったく同じだったのに、結衣には少しちがって聞こえた。

 思い出したんじゃない。
 いないはずの人が、一瞬だけ戻ってきたみたいだった。

 悲しいのに、安心してしまった。
 そのことがいちばん、結衣を黙らせた。