きみの録音ボタンが消えるまで

 最後の録音が流れ終わると、放送室の中に一瞬だけ無音が落ちた。

 機材の小さな駆動音だけが、机の向こうでかすかに続いている。
 結衣は原稿のいちばん下まで視線を滑らせた。用意されている進行文は、あと数行だけだ。ここを読み終えたら、本来ならそのまま放送を切ればいい。

 それで十分なはずだった。

 最初はつかえた。
 声も少し震えた。
 それでも最後まで来られたのだから、もう役目は果たしている。

 結衣は原稿を持つ指に少しだけ力を入れた。

「以上で、今日の校内放送を終わります」

 読み終える。
 机の上のランプはまだ赤いままだ。
 放送を切るためのスイッチへ指を伸ばしかけて、結衣はそこで止まった。

 胸の奥に、まだ言葉になっていない何かが残っていた。

 たぶん今ここで言わなければ、あとで同じ形ではもう出てこない。
 原稿の外にある、自分の言葉。
 兄の声を追いかけていた時間も、真帆たちの録音も、母と一緒に聞いたあの短い音声も、その全部を通って胸の中に残った言葉。

 言うのか、言わないのか。
 ほんの一拍の迷いが、結衣の中で長く伸びる。

 けれどその一拍のあいだに、いくつもの声が静かに重なった。

 真帆の、少し震えた祖母への言葉。
 照れながらもお弁当のお礼を言ったクラスメイトの声。
 兄の、「ほら、結衣、ちゃんと言えた」という小さな声。
 そして昨夜、食卓で母が言った、「聞きたい」という短い言葉。

 結衣は原稿から目を離し、マイクを見た。

「……最後に」

 その一言で、自分の声の響きが少し変わるのがわかった。
 進行のための声ではなく、結衣自身の声になる。

 喉はまだ少しだけ乾いている。
 でも、不思議ともう逃げたくはなかった。

「伝えたいことって、たぶん」
「最初から、うまく言えるとは限らないと思います」

 話しながら、結衣は自分の呼吸の音を耳の奥で聞いていた。
 少しだけ震えている。
 けれど、その震えも今は隠したいものではなかった。

「途中で止まったり、言い直したり、恥ずかしくなったりしても」
「それでも、今の声で届けていいんだと思います」

 言い終わったあと、放送室の中はまた一瞬だけ静かになった。

 今の言葉は原稿にはない。
 誰かに用意してもらったものでもない。
 教わった正解でも、兄が残した答えでもない。

 ここまで聞いてきた声たちの中から、結衣の中に残ったものが、そのまま出てきた言葉だった。

 結衣は小さく息を吐いて、放送を切る。

 赤いランプが消えた。

 その瞬間、全身から一気に力が抜けた。椅子にもたれそうになるのを、どうにかこらえる。終わったのだとわかった途端、肩の重さも、喉の乾きも、手のひらの熱も、全部まとめて戻ってきた。

「……はあ」

 自分でも少し情けないくらいの息が漏れる。

 真帆がすぐ横で吹き出した。

「おつかれ」
「……うん」
「いや、ほんとにおつかれ」

 その声は大げさではなかった。
 でも、ちゃんとうれしそうだった。

 律はヘッドホンを外しながら、いつも通りの落ち着いた声で言う。

「最初つかえたとこも含めて、よかった」
「……え」
「たぶん、そのほうがちゃんと聞こえた」

 結衣は一瞬、返事ができなかった。

 最初につかえてしまったことを、ずっと少しだけ恥ずかしいと思っていた。きれいに始められなかったことが、最後まで胸のどこかに引っかかっていた。

 でも今、律はそれごと“よかった”と言った。

 真帆もうなずく。

「うん。ちゃんと届いた感じした」
「最後のやつも」
「……最後の」
「原稿にないやつ。あれ、よかった」

 結衣は少しだけ目を伏せる。
 ほめられると、まだうまく受け取れない。けれど今は、それを全部否定したい気持ちもなかった。

 完璧ではなかった。
 むしろ、完璧からはいちばん遠い放送だったかもしれない。最初はつかえたし、途中の声も少し揺れていた。

 それでも、ちゃんと最後まで届いた気がする。

 誰かの代わりの声じゃない。
 隠してごまかすための声でもない。

 うまく言えなかったところまで含めて、あれはたしかに結衣の声だった。