きみの録音ボタンが消えるまで

 最初の進行を読み終えると、律が小さく合図を出した。

 結衣はうなずいて、机の上の一覧に目を落とす。
 指先はまだ少しこわばっていたけれど、さっきみたいに何もわからなくなる感じはなかった。

「それでは、各クラスから集まったメッセージをお送りします」

 声に出してから、少しだけ呼吸を整える。
 律が最初の音源を流した。

『お母さん、いつもお弁当ありがとう』

 少しだけ笑いをこらえた声だった。
 たぶん、録音のときにも耳まで赤くしていたあの子だ。最後の「ありがとう」が、ほんの少しだけ上ずっていて、それでもちゃんと相手へ向いているのがわかる。

 放送室の中に、誰かの声が流れる。

 その瞬間、結衣は少しだけ肩の力が抜けるのを感じた。
 自分ひとりで話しているわけじゃない。ここには、みんなの声がある。

 次の音源。

『先生、あのとき助けてくれて、ありがとうございました』

 少し早口な男子の声。最後だけ急に丁寧になるのが、そのまま本人らしい。
 その次は、友達への短いメッセージだった。名前を言う前に一度だけ息を吸いこんで、それから思い切ったように呼びかけている。

 どの声も、少しずつ不格好だった。
 きれいに整った放送には聞こえないかもしれない。
 でも、その不格好さごと、ちゃんと誰かに向いていた。

 結衣は原稿の次の行へ目を落とし、短い案内を読む。

「続いて、家族へ向けたメッセージです」

 今度は、少しだけ自分の声が落ち着いて聞こえた。
 最初につかえた声の名残はまだある。けれど、それももう隠そうとは思わなかった。

 次に流れたのは、真帆の声だった。

『おばあちゃん、いつも、お菓子送ってくれてありがとう』

 その一言だけで、放送室の空気が少し変わる。

 結衣は思わず、原稿から少しだけ顔を上げた。
 真帆の声は、前に聞いたときと同じように、少し揺れていた。途中の呼吸も、そのまま入っている。

『電話だと元気なふりしちゃうけど、ほんとは会いたいです』
『また、ちゃんと会いに行くね』

 笑いながら言ったのか、泣きそうなのをこらえながら言ったのか、たぶんその両方だった。
 でも、その不安定さがあるからこそ、言葉がまっすぐ届く。

 うまく言えていない声って、たぶんほんとだから。

 律の言葉が、遅れて胸の中で重なる。

 結衣はその音声が終わるまで、じっと耳を澄ませていた。
 録音のとき、真帆が言葉を探して何度も息を整えていたことを思い出す。あの時間ごと、この声には残っている。だからこそ、ただの“うまい録音”じゃないものになっているのだ。

 次のメッセージへ進む。
 また別の誰かの「ありがとう」が流れる。
 少し照れた声。
 途中で笑ってしまう声。
 最後だけ急に小さくなる声。

 結衣はその一つひとつを聞きながら、胸の奥で何かが少しずつほどけていくのを感じていた。

 みんな、最初から上手に言えていたわけじゃない。
 でも、それぞれの声で、それぞれの相手に何かを渡そうとしていた。

 その不器用さが、今の結衣にはやけに心強かった。

 さっきまで、自分の声だけをマイクへ乗せている気がしていた。
 でも今は違う。
 自分は、みんなの声をつないでいる。
 照れながら言った声も、息をつまらせた声も、最後まで言い切ろうとした声も、全部つないで、校内へ流している。

 その感覚が、結衣を少しずつ落ち着かせた。

 進行原稿を読みながら、呼吸が前より整っていく。
 声の震えも、完全には消えないけれど、それでいいと思えた。

 結衣は次の案内を口にする。

「どのメッセージも、短い言葉ですが、相手のことを思って届けられたものです」

 読み終えてから、自分の声に少しだけ他人の気配が混ざっているような気がした。
 兄の声ではなく、母でもなく、ここまで集めてきたみんなの声が、少しずつ自分の背中を支えている。

 自分だけで話しているわけじゃない。
 不完全な声たちの中に、自分の声もひとつ混ざっていていい。

 そう思えた瞬間、結衣はさっきより少しだけ深く息を吸えた。

 みんなの不器用な声が流れるたび、結衣の中の「ちゃんとしなきゃ」が、少しずつほどけていった。