きみの録音ボタンが消えるまで

 放送室は、思っていたよりずっと狭かった。

 何度か出入りしたことはある。録音データを渡したり、機材の説明を聞いたり、扉のところから中をのぞいたこともある。けれど、マイクの前に自分が座るだけで、同じ部屋がまるで別の場所みたいに見えた。

 机の上には原稿が置かれている。
 録音データの順番を書いたメモ。
 小さな時計。
 マイク。
 ヘッドホン。
 必要なものは全部そろっているはずなのに、結衣には足りないものばかりが気になった。

 手が震える。

 原稿の端を持つ指先が、見てわかるくらいにかすかに揺れていた。紙の角が小さく震えて、そのたびに自分の緊張が目に見える形になってしまうのが嫌だった。

 結衣は原稿を机に置き直し、指を一度だけ握り込む。
 喉も乾いていた。さっきまで平気だったのに、放送室へ入った途端、口の中の水分だけが全部どこかへ行ってしまったみたいだった。

「水、飲む?」

 真帆が小さなペットボトルを差し出す。
 結衣は「……ありがとう」と言って受け取り、一口だけ飲んだ。冷たい水が喉を通る。少し楽になる気はするのに、乾きそのものはまだ残っていた。

「大丈夫?」

 真帆が聞く。
 結衣は少しだけ迷ってから、正直にうなずききれなかった。

「……わかんない」
「それはそうか」

 真帆は無理に励ましたりしなかった。
 代わりに、「私でもたぶん逃げたいもん」と小さく笑う。その言い方が、結衣にはありがたかった。

 律は機材の前に座ったまま、ヘッドホンを片耳だけずらして言った。

「マイク、近づきすぎなくて大丈夫」
「……うん」
「最初だけ入れば、あとは流れでいける」

 淡々とした声だった。
 けれど、その言葉が励ましなのだと結衣にはわかった。

 最初だけ入れば、あとは流れでいける。

 その“最初”がいちばん怖いのに、と思う。
 でも同時に、最初の一言さえ越えられれば何とかなるかもしれない、という気持ちもほんの少しだけ湧いた。

 壁の時計を見る。

 昼休み開始まで、あと二分。

 たった二分。
 なのに、体感ではもっと長い。秒針が一つ進むたびに、胸の奥までかちりと鳴るみたいだった。

 やると言ったのは自分だ。
 あのとき、放送室の前で「私がやる」と口にした。誰かに言わされたわけじゃない。兄の代わりでも、真帆の勢いでも、律の期待でもない。あれは確かに、自分の声だった。

 そのことが、今は少しだけ支えになる。

 母が「聞きたい」と言ってくれたことも思い出す。
 兄の「ちゃんと言えた」という声も、遠くではなく、今の自分の背中のあたりに残っている気がした。

 もちろん、それで緊張が消えるわけじゃない。

 逃げたい気持ちは、ちゃんとある。
 マイクの前に座るだけで、足元が少し頼りなくなる。原稿の文字も、じっと見ていると意味より先に黒い形として目に入ってくる。

 それでも、逃げたくない気持ちも同じくらい本物だった。

 結衣は原稿をもう一度手に取る。
 今度は紙の揺れを見ないように、文字だけを追う。

 上手にじゃなくていい。
 ちゃんと最後まで。
 それだけを、心の中で何度もくり返す。

 赤いランプはまだついていない。
 始まってもいない。

 なのに結衣には、もうここからが本番みたいに思えた。
 放送の前のこの数分を逃げずに座っていること自体が、昨日までの自分にはなかったことだからだ。

 真帆が隣で、小さく拳を作って見せる。

「終わったら甘いの飲も」
「……うん」
「それを目標にしよ」
「うん」

 今度の返事は、少しだけちゃんと声になった。

 放送開始まで、あと一分。
 律が機材のスイッチを確認し、真帆が原稿の順番を最後にもう一度見る。結衣はマイクの前に座ったまま、深く息を吸った。

 震えていることは失敗じゃない。
 そう思おうとするだけで、少しだけ背筋がまっすぐになった。