きみの録音ボタンが消えるまで

 翌日の昼休み前、放送室の前にはいつもより少し早いざわめきが集まっていた。

 結衣が準備室から機材を持って廊下へ出ると、真帆がスマホを片手に困ったような顔をしている。律は放送室の扉を半分開けたまま、中の機材を確認していたけれど、その横顔にも少しだけいつもと違う緊張があった。

「どうしたの」

 結衣が聞くと、真帆がすぐに振り向く。

「進行やる二年の先輩、今日来てない」
「え」
「さっき先生から連絡あって、体調不良で休みだって」

 その言葉のあと、廊下の空気が一瞬だけ止まる。

 誰かが「じゃあどうするの」と言い、別の誰かが「録音流すだけならいけるんじゃ」と返す。けれど、その声にはどれも決め手がない。放送はもうすぐ始まる。録音データはそろっている。機材も問題ない。足りないのは、最初と最後をつなぐ声だけだった。

 結衣は手の中のクリアファイルを少し強く握った。

 たったそれだけのこと、に見える。
 録音したメッセージを流して、進行文を読んで、最後に締めればいい。紙には原稿もある。やること自体は決まっている。

 なのに、胸の奥ではっきりとわかる。
 それが結衣にとっては“たったそれだけ”じゃない。

 放送室の中にはマイクがある。
 赤いランプがつく。
 校内中に自分の声が流れる。

 そう思っただけで、喉が急に乾いた。

「先生に誰か頼む?」

 真帆が言う。
 でも、その言い方には“本当は今ここで決まったほうが早い”という気配が混じっていた。律も何か言いかけて、やめる。放送まで、もうほとんど時間がないのだ。

 結衣は周りの顔を見た。

 みんな少し困っている。
 でも誰も、はっきり手を挙げる感じではない。やりたくないというより、突然すぎて動けないのだろう。たぶん、前の自分ならまったく同じだった。こういうときは視線を落として、誰かが決めてくれるのを待つ。名前が出ませんようにと願いながら、時間だけが過ぎるのをじっと待つ。

 その数秒が、ひどく長く感じられた。

 結衣の中で、昨日の母の声がふいによみがえる。

明日の放送、聞きたい。

 そして、兄の音声も。

ほら、結衣、ちゃんと言えた。

 あれは昔の声だ。
 今の自分にそのまま使える答えじゃない。
 でも、だから意味がないわけじゃない。

 結衣は気づく。
 今までずっと、誰かの代わりに言ってもらう側にいた。兄が言ってくれて、空気を変えてくれて、困る前に守ってくれていた。学校でも、何かが起きれば誰かがやってくれるのを待つ側にいた。

 でも今は、たぶん違う。

 怖い。
 もちろん怖い。
 声がつまるかもしれないし、途中で何も出なくなるかもしれない。

 それでも、ここで目をそらしたら、また同じところへ戻る気がした。

 自分の順番だ。

 その言葉が胸の奥で小さく鳴った瞬間、結衣の口が先に動いた。

「……私がやる」

 言ってから、自分の声がいちばん近くで聞こえた。

 まわりのざわめきが、一拍ぶんだけ止まる。
 真帆がぱっと振り向く。
 律も顔を上げる。

「朝倉さん?」

 真帆の声には驚きが混じっていた。止める響きではない。ただ、本当に結衣の口からその言葉が出たことに驚いている声だった。

 結衣は手のひらに爪を立てる。
 心臓がうるさい。
 今すぐ「やっぱり無理」と言ってしまえたら、どんなに楽だろうと思う。

 けれど、それはしたくなかった。

「原稿、あるし」
「録音の順番も……わかるから」
「たぶん、できる」

 最後のほうは少しだけ頼りなかった。
 でも、自分の声だった。

 律が結衣を見つめる。
 その視線は短くて静かで、でも確かに“本当にやるのか”を確認していた。

 結衣は小さくうなずく。

 すると律はそれ以上何も聞かず、「じゃあすぐ入ろう」とだけ言った。
 その一言で、決まったのだとわかる。

 真帆が息をついて、それから少しだけ笑った。

「……うん。じゃあ私、横でサポートする」
「ありがとう」
「いや、そこは本番終わってから言って」

 真帆の軽い言い方に、結衣もほんの少しだけ口元をゆるめる。

 放送室の扉が開いたまま、静かに待っている。
 中にはマイクと、原稿と、赤いランプがある。

 怖さは消えていなかった。
 それでも結衣は、その扉の前で立ち止まらなかった。

 誰かに代わってもらうんじゃなく、自分で前へ出る。
 そう決めた瞬間、胸の奥で何かが静かに切り替わった。