レコーダーをポーチにしまう前に、結衣は何となく液晶画面を見た。
いつもなら、録音がちゃんと保存されているかだけ確認して終わりだ。ファイル名を細かく見ることもないし、古い録音をさかのぼることもほとんどない。話したいことを置いて、しまって、それで終わり。その手順に慣れきっていた。
けれどその夜は、指がすぐには止まらなかった。
十字キーを一つ押す。
画面の表示が切り替わる。
さらにもう一つ押しかけて、結衣はそこで指を止めた。
見慣れない表示があった。
未整理 12件
結衣は眉をひそめる。
こんなの、前からあっただろうか。
小さな液晶の青白い光が、指先だけをぼんやり照らしている。部屋の明かりはついているのに、その四文字だけが妙にくっきり見えた。
未整理。
自分でそんなフォルダを作った覚えはない。兄が使っていたころのデータが何か残っているのかもしれない、と考えて、胸の奥がかすかにざわつく。けれど、すぐにはそう思いたくなかった。
たぶん、ただの古い設定だ。
自分が知らないだけで、最初からあった場所かもしれない。
そう思って閉じようとするのに、指は画面から離れなかった。
結衣はそっと決定ボタンを押した。
中には、日付の並んでいないファイルがいくつか並んでいた。自分が最近吹き込んだ録音とは表示のされ方が少し違う。番号だけのもの。記号みたいに短いもの。見覚えのない並び方。
喉の奥が、ゆっくり乾いていく。
自分の録音じゃない。
そう思った瞬間、急に部屋の静けさが変わった。さっきまで遠くにあったはずの時計の音や、外を通る車の気配が、全部一度遠のいてしまう。
結衣はレコーダーを持ち直した。手の中で少しだけ汗ばんでいるのがわかる。
違う、と思った。
でも何が違うのか、自分でもまだちゃんと言えなかった。
一番上のファイルにカーソルを合わせる。
押すだけだ。
再生して、違ったら閉じればいい。
ただそれだけのことなのに、親指が少し動きにくい。
結衣は一度だけ唇を湿らせてから、再生ボタンを押した。
しばらくは何も起こらなかった。
正確には、何もないわけではない。ざあ、と小さく風が吹き込むような音がしている。外で録ったのだろうか、遠くで空気が揺れている感じがする。
そのあと、靴がアスファルトを踏む音。
服の袖が擦れるようなかすかな音。
結衣は無意識に息を止めていた。
数秒がやけに長い。
やっぱり違うかもしれない。
ただの雑音かもしれない。
そう思いかけた、そのときだった。
「……あ、やば。今の録れてる?」
聞き間違えるはずのない声だった。
結衣の指が止まる。
止まったまま、体のどこもすぐには動かなかった。
イヤホンはしていない。小さなスピーカーから流れるその声は、部屋じゅうに広がるほど大きくもないのに、結衣には耳のすぐ近くで鳴ったみたいに聞こえた。
そのあと、少し離れたところで兄が笑った。
短い、なんでもない笑い声だった。
誰かに聞かせるつもりもなかったみたいな、気の抜けた声。
それなのに、その一瞬だけで胸の奥が強くつかまれる。
もう二度と聞けないと思っていた声だった。
「……うそ」
かすれた声が、自分の喉からこぼれた。
結衣はあわてて停止ボタンを押す。押したあとも、液晶の画面を見つめたまま動けなかった。
今のは何だったのか。
本当に兄だったのか。
でも、そんなことを疑えるはずもない。
あの少し早口な言い方。
語尾の軽さ。
笑う前に一瞬だけ息が混じる感じ。
全部、兄だった。
心臓がうるさい。
耳の奥までどくどく鳴っていて、部屋の静けさがさっきまでとはまるで違うものに思える。
もう一度、聞かなきゃ。
そう思うより先に、結衣の指は巻き戻しを押していた。
風の音。
靴音。
服の擦れる気配。
そして、
「……あ、やば。今の録れてる?」
今度は最初よりもはっきり、その声が兄のものだとわかった。
結衣はそこで目を閉じる。涙が出るより先に、息がうまくできなくなる。苦しいのに、止めたくなかった。止めてしまったら、また二度と聞けなくなる気がした。
兄の声がある。
その事実だけが、何もかもを押しのけて胸の中に入ってくる。
机も、カーテンも、教科書も、さっき自分が吹き込んだ録音も、その瞬間だけ少し遠くなった。部屋の真ん中にあるのは、手のひらの中の小さな機械と、その中から帰ってきた兄の声だけだった。
結衣はもう一度再生しようとして、指先を震わせたまま止まった。
これを聞いた瞬間、何かが変わってしまった気がした。
今日までの自分には、もう戻れない。
そう思ったのがなぜなのか、そのときはまだわからなかった。
ただ、兄の声がレコーダーの中で、二年遅れで帰ってきたことだけは、はっきりしていた。
いつもなら、録音がちゃんと保存されているかだけ確認して終わりだ。ファイル名を細かく見ることもないし、古い録音をさかのぼることもほとんどない。話したいことを置いて、しまって、それで終わり。その手順に慣れきっていた。
けれどその夜は、指がすぐには止まらなかった。
十字キーを一つ押す。
画面の表示が切り替わる。
さらにもう一つ押しかけて、結衣はそこで指を止めた。
見慣れない表示があった。
未整理 12件
結衣は眉をひそめる。
こんなの、前からあっただろうか。
小さな液晶の青白い光が、指先だけをぼんやり照らしている。部屋の明かりはついているのに、その四文字だけが妙にくっきり見えた。
未整理。
自分でそんなフォルダを作った覚えはない。兄が使っていたころのデータが何か残っているのかもしれない、と考えて、胸の奥がかすかにざわつく。けれど、すぐにはそう思いたくなかった。
たぶん、ただの古い設定だ。
自分が知らないだけで、最初からあった場所かもしれない。
そう思って閉じようとするのに、指は画面から離れなかった。
結衣はそっと決定ボタンを押した。
中には、日付の並んでいないファイルがいくつか並んでいた。自分が最近吹き込んだ録音とは表示のされ方が少し違う。番号だけのもの。記号みたいに短いもの。見覚えのない並び方。
喉の奥が、ゆっくり乾いていく。
自分の録音じゃない。
そう思った瞬間、急に部屋の静けさが変わった。さっきまで遠くにあったはずの時計の音や、外を通る車の気配が、全部一度遠のいてしまう。
結衣はレコーダーを持ち直した。手の中で少しだけ汗ばんでいるのがわかる。
違う、と思った。
でも何が違うのか、自分でもまだちゃんと言えなかった。
一番上のファイルにカーソルを合わせる。
押すだけだ。
再生して、違ったら閉じればいい。
ただそれだけのことなのに、親指が少し動きにくい。
結衣は一度だけ唇を湿らせてから、再生ボタンを押した。
しばらくは何も起こらなかった。
正確には、何もないわけではない。ざあ、と小さく風が吹き込むような音がしている。外で録ったのだろうか、遠くで空気が揺れている感じがする。
そのあと、靴がアスファルトを踏む音。
服の袖が擦れるようなかすかな音。
結衣は無意識に息を止めていた。
数秒がやけに長い。
やっぱり違うかもしれない。
ただの雑音かもしれない。
そう思いかけた、そのときだった。
「……あ、やば。今の録れてる?」
聞き間違えるはずのない声だった。
結衣の指が止まる。
止まったまま、体のどこもすぐには動かなかった。
イヤホンはしていない。小さなスピーカーから流れるその声は、部屋じゅうに広がるほど大きくもないのに、結衣には耳のすぐ近くで鳴ったみたいに聞こえた。
そのあと、少し離れたところで兄が笑った。
短い、なんでもない笑い声だった。
誰かに聞かせるつもりもなかったみたいな、気の抜けた声。
それなのに、その一瞬だけで胸の奥が強くつかまれる。
もう二度と聞けないと思っていた声だった。
「……うそ」
かすれた声が、自分の喉からこぼれた。
結衣はあわてて停止ボタンを押す。押したあとも、液晶の画面を見つめたまま動けなかった。
今のは何だったのか。
本当に兄だったのか。
でも、そんなことを疑えるはずもない。
あの少し早口な言い方。
語尾の軽さ。
笑う前に一瞬だけ息が混じる感じ。
全部、兄だった。
心臓がうるさい。
耳の奥までどくどく鳴っていて、部屋の静けさがさっきまでとはまるで違うものに思える。
もう一度、聞かなきゃ。
そう思うより先に、結衣の指は巻き戻しを押していた。
風の音。
靴音。
服の擦れる気配。
そして、
「……あ、やば。今の録れてる?」
今度は最初よりもはっきり、その声が兄のものだとわかった。
結衣はそこで目を閉じる。涙が出るより先に、息がうまくできなくなる。苦しいのに、止めたくなかった。止めてしまったら、また二度と聞けなくなる気がした。
兄の声がある。
その事実だけが、何もかもを押しのけて胸の中に入ってくる。
机も、カーテンも、教科書も、さっき自分が吹き込んだ録音も、その瞬間だけ少し遠くなった。部屋の真ん中にあるのは、手のひらの中の小さな機械と、その中から帰ってきた兄の声だけだった。
結衣はもう一度再生しようとして、指先を震わせたまま止まった。
これを聞いた瞬間、何かが変わってしまった気がした。
今日までの自分には、もう戻れない。
そう思ったのがなぜなのか、そのときはまだわからなかった。
ただ、兄の声がレコーダーの中で、二年遅れで帰ってきたことだけは、はっきりしていた。
