きみの録音ボタンが消えるまで

 音声が止まったあとも、しばらく誰も動かなかった。

 レコーダーは机の真ん中で小さく黙っている。
 たったあれだけの短い再生だったのに、部屋の中にはまだ兄の声の残りみたいなものが漂っている気がした。

 母は目を閉じたまま、膝の上で手を重ねている。
 結衣もレコーダーの横に置いた自分の手を引っ込められずにいた。

 何か言わなければいけないのだと思う。
 でも、何を最初に言えばいいのかがわからない。

 兄の声を一緒に聞いた。
 それだけで十分大きなことだった。
 けれど、ここでまた何も言えなかったら、たぶん戻ってしまう。昨日までの、言葉を飲み込むだけの食卓へ。

 結衣がそう思ったのと、母が小さく息を吐いたのは、ほとんど同時だった。

「……結衣まで」

 母の声は、少しかすれていた。

「結衣まで、いなくなるのが怖かったの」

 結衣は息を止める。

 向かいに座る母は、まだまっすぐこちらを見られてはいなかった。けれど、その声だけはきれいに逃げずに、机の上を渡ってきた。

「何か言って、傷つけたらどうしようって」
「余計なこと言って、また……何かなくなったらどうしようって」

 そこで言葉が詰まる。
 母は唇を引き結び、それからもう一度だけ声を出した。

「だから、何も言えなくなった」

 その一言で、結衣の胸の奥にあったものが、少しだけ形を変える。

 母は見ていなかったわけじゃない。
 何も思っていなかったわけでもない。
 ただ近づけなかっただけだ。

 兄を失ってから、母の沈黙は結衣を遠ざけるものに見えていた。冷たいわけではなくても、少なくとも、自分のほうを向いてはくれていないのだと思っていた。

 でも違ったのだ。

 向きたいのに向けなかった。
 言いたいのに言えなかった。
 それは、結衣がずっと自分に対して思っていたことと、ほとんど同じだった。

 結衣はレコーダーの端にそっと触れる。

「私も……」

 声が少しだけ震えた。
 それでも、今度は止めたくなかった。

「私も、困らせたくなくて、言えなかった」

 母の目がゆっくり上がる。

 結衣は視線を受け止めながら、喉の奥のつかえを一つずつ押し出すみたいに続けた。

「お母さん、ずっとしんどそうだったし」
「お兄ちゃんのこと、言ったらだめだと思ってた」
「学校のことも、嫌だって言えなくて……」
「私がちゃんとしてれば、これ以上困らせないで済むって、ずっとそう思ってた」

 言いながら、自分の声が少しずつほどけていくのがわかった。

 うまく言えている気はしない。
 順番もきれいじゃない。
 でも、今のこれは、間違いなく結衣の本音だった。

 母は何もはさまなかった。
 ただ聞いている。
 そのことが、結衣にはありがたかった。

「でも、ちゃんとしてるふりしてるだけで」
「ほんとは、ずっと苦しかった」

 最後のほうは、少しだけ涙が混じった。
 泣こうと思っていたわけじゃない。けれど、ここまで来るともう、声の中に混ざるものまで止めきれなかった。

 母がそこで初めて、はっきりと結衣の顔を見る。

 目が少し赤くなっていた。
 でも、泣き崩れるわけではない。
 その代わり、ずっと押さえていたものがようやく表へ出た人の顔をしていた。

「ごめんね」

 母が小さく言う。

 結衣は首を振った。

「……私も」
「ごめん、じゃないかも」
「でも、ずっと言えなかった」

 その言葉に、母がほんの少しだけ口元をゆるめる。笑ったわけではない。ただ、結衣の言おうとしていることを受け取ろうとした顔だった。

 二人とも、相手を思って黙っていた。
 困らせたくなくて、傷つけたくなくて、これ以上失いたくなくて。

 その結果、いちばん近くにいる相手へ、何も渡せなくなっていた。

 結衣はそのことを、ようやくちゃんと痛いものとして知った。
 でも同時に、その痛みはもう、昨日までみたいな一人きりのものではなかった。

 机の上のレコーダーは、もう何も流していない。
 けれど兄の声が残したものは、今たしかにこの食卓の上にあった。

 母が静かに目元を押さえる。
 その仕草は大きくない。
 でも、これまで見たどんな涙よりも、結衣には深く見えた。

 結衣も手の甲で目をこする。
 鼻の奥がつんとしたまま、でももう顔を伏せはしなかった。

 言えなかったことは、全部きれいな形では出てこなかった。
 それでも今、二人のあいだにはちゃんと置かれていた。

 やさしさの形を間違えたまま長く続いていた沈黙が、そこでようやく少しずつほどけ始めた。