その夜、食卓の上には湯のみが二つと、レコーダーが一つだけ置かれていた。
兄がいたころなら、きっと少し狭く感じたはずの机だ。今は向かい合って座る二人のあいだに、沈黙のほうが広く残っている。その真ん中に置かれた小さな機械だけが、不自然なくらいはっきり見えた。
母は結衣の向かいに座っていた。
手は膝の上に重ねられたままで、指先だけが少し強く組まれている。テレビはついていない。換気扇の音も止めてあるから、部屋は静かだった。
ここまで来たのに、結衣はまだ喉が乾いていた。
レコーダーに手を伸ばす。
指先が少しだけ冷たい。
前なら、兄の声を再生するのはひとりの時間だった。返事のない相手に向かって、今日のしんどさを置いていくための時間だった。けれど今は違う。結衣だけが聞くためではない。母と一緒に、同じ音を聞くための時間だ。
「……押すね」
母は返事をしなかった。
でも、止めもしなかった。
それだけで十分だと思った。
結衣は親指で再生ボタンを押す。
最初に流れるのは、ざらついたノイズだった。
小さな雑音が、静かな部屋の中では思っていた以上に大きく聞こえる。結衣はそこで、自分が息を詰めていたことに気づいた。
やがて、その奥から幼い声がする。
「……ありがとうございました」
小さい。
少し高い。
緊張していて、でも最後までちゃんと言い切ろうとしている声。
結衣はその一言を、何度も聞いたはずなのに、母と一緒に聞くとまた少し違って聞こえた。これは自分の過去の声であると同時に、母にとっては、まだ兄がいたころの家の時間でもあるのだと思う。
向かいを見ると、母は視線をレコーダーへ落としたまま動かなかった。
ただ、膝の上に置いた指先だけが、ほんの少しだけ強く握られている。
続いて、少し離れたところから兄の声がした。
「ほら、結衣、ちゃんと言えた」
その瞬間、母が目を閉じた。
泣き崩れるわけではない。
声をもらすわけでもない。
ただ、その短い一言が部屋の中へ流れた途端、母のまぶたがゆっくり閉じる。
聞いてしまったのだと、結衣にはわかった。
兄の声を。
幼い自分の声を。
もう戻らない時間の音を。
音声はすぐに終わった。
ほんの数秒の出来事だったのに、部屋の空気はその前とまるで違っていた。
レコーダーの表示が止まる。
それでも結衣は、すぐには手を離せなかった。
無音が戻る。
けれどその無音は、これまでの家にあった沈黙とは違った。
何も言わずに遠ざかるための静けさではなく、何かが終わったあとに、その場へちゃんと残る静けさだった。
母はまだ目を閉じている。
結衣も何も言えない。
短い音声だった。
答えらしい答えもない。
兄が今の二人に何かを教えるわけでもない。
それでも、その短さの中に入っていたものは、結衣が思っていたよりずっと大きかった。
兄は結衣の声を見ていた。
そして今、その記録を母も一緒に聞いた。
それだけで、止まっていた時間のどこかが、ほんの少しだけ動いた気がした。
結衣はレコーダーの上に置いた指をゆっくり離す。
再生が終わっても、二人ともすぐには元の沈黙へ戻れなかった。
兄がいたころなら、きっと少し狭く感じたはずの机だ。今は向かい合って座る二人のあいだに、沈黙のほうが広く残っている。その真ん中に置かれた小さな機械だけが、不自然なくらいはっきり見えた。
母は結衣の向かいに座っていた。
手は膝の上に重ねられたままで、指先だけが少し強く組まれている。テレビはついていない。換気扇の音も止めてあるから、部屋は静かだった。
ここまで来たのに、結衣はまだ喉が乾いていた。
レコーダーに手を伸ばす。
指先が少しだけ冷たい。
前なら、兄の声を再生するのはひとりの時間だった。返事のない相手に向かって、今日のしんどさを置いていくための時間だった。けれど今は違う。結衣だけが聞くためではない。母と一緒に、同じ音を聞くための時間だ。
「……押すね」
母は返事をしなかった。
でも、止めもしなかった。
それだけで十分だと思った。
結衣は親指で再生ボタンを押す。
最初に流れるのは、ざらついたノイズだった。
小さな雑音が、静かな部屋の中では思っていた以上に大きく聞こえる。結衣はそこで、自分が息を詰めていたことに気づいた。
やがて、その奥から幼い声がする。
「……ありがとうございました」
小さい。
少し高い。
緊張していて、でも最後までちゃんと言い切ろうとしている声。
結衣はその一言を、何度も聞いたはずなのに、母と一緒に聞くとまた少し違って聞こえた。これは自分の過去の声であると同時に、母にとっては、まだ兄がいたころの家の時間でもあるのだと思う。
向かいを見ると、母は視線をレコーダーへ落としたまま動かなかった。
ただ、膝の上に置いた指先だけが、ほんの少しだけ強く握られている。
続いて、少し離れたところから兄の声がした。
「ほら、結衣、ちゃんと言えた」
その瞬間、母が目を閉じた。
泣き崩れるわけではない。
声をもらすわけでもない。
ただ、その短い一言が部屋の中へ流れた途端、母のまぶたがゆっくり閉じる。
聞いてしまったのだと、結衣にはわかった。
兄の声を。
幼い自分の声を。
もう戻らない時間の音を。
音声はすぐに終わった。
ほんの数秒の出来事だったのに、部屋の空気はその前とまるで違っていた。
レコーダーの表示が止まる。
それでも結衣は、すぐには手を離せなかった。
無音が戻る。
けれどその無音は、これまでの家にあった沈黙とは違った。
何も言わずに遠ざかるための静けさではなく、何かが終わったあとに、その場へちゃんと残る静けさだった。
母はまだ目を閉じている。
結衣も何も言えない。
短い音声だった。
答えらしい答えもない。
兄が今の二人に何かを教えるわけでもない。
それでも、その短さの中に入っていたものは、結衣が思っていたよりずっと大きかった。
兄は結衣の声を見ていた。
そして今、その記録を母も一緒に聞いた。
それだけで、止まっていた時間のどこかが、ほんの少しだけ動いた気がした。
結衣はレコーダーの上に置いた指をゆっくり離す。
再生が終わっても、二人ともすぐには元の沈黙へ戻れなかった。
