きみの録音ボタンが消えるまで

 結衣は流し台の前に立つ母の背中を見つめたまま、しばらく何も言えなかった。

 さっき聞いた言葉が、まだ胸の奥で揺れている。

聞いたら、あの子がもういないって、ちゃんとわかっちゃうでしょう。

 それは結衣の予想していた言葉ではなかった。
 母が冷たいからじゃない。忘れたいからじゃない。兄を遠ざけたいからでもない。

 怖かったのだ。
 声を聞いてしまったあとに戻ってくる静けさが。
 “ここにいるみたい”と思ってしまったあとに、やっぱりいないと知り直すことが。

 それは結衣にも、わかる。

 わかるからこそ、胸が苦しかった。
 わかるのに、このまま何も言わずに終わることも、もう同じくらい怖かった。

 喉の奥が詰まる。
 声を出そうとして、うまく空気が通らない。
 それでも結衣は、一度だけ大きく息を吸った。

「逃げないで」

 口に出した瞬間、自分でも驚くくらい、声が震えていた。

 母の肩が小さく揺れる。
 ゆっくりと振り返った顔は、思っていたよりも弱く見えた。怒っているわけでも、拒んでいるわけでもない。ただ、何かを前にして立ちすくんでいる人の顔だった。

 結衣はその視線を受け止めきれずに、それでも目をそらさなかった。

「私も、怖い」

 言葉はきれいじゃなかった。
 もっとちゃんと伝えたいのに、喉の奥から出てくる声は少しかすれている。

「聞いたら、本当にお兄ちゃんがいないってわかるの、怖いよ」
「聞いてるあいだだけ、戻ってきたみたいになるのも……そのあと静かになるのも」

 そこまで言って、結衣は一度だけ息をついた。
 母は何も言わない。けれど今の沈黙は、前みたいに話を切るためのものじゃなかった。ちゃんと聞いている沈黙だった。

 そのことが、結衣にはわかった。

「でも」

 結衣はレコーダーを胸の前で握る。

「ずっとこのままのほうが、もっと怖い」

 その言葉は、自分へ言い聞かせるみたいでもあった。

 兄がいないことを認めたくなくて、母は声を聞けずにいた。
 兄に頼っていたい気持ちがまだ消えなくて、結衣は壊れた音声の続きを“答え”みたいに思い込んでいた。

 でも、それで止まったままでいたら、たぶん何も変わらない。
 母とも。
 自分とも。
 兄の残したものの意味とも。

「これ、ただ声が残ってたって話じゃないの」

 レコーダーを少しだけ持ち上げる。
 差し出すというより、見せるみたいに。

「お兄ちゃんが、私のこと見てたってわかったの」
「私、自分ではずっと、言えないほうの人だと思ってた」
「でも……言えたこと、あったんだって」

 母の目がわずかに揺れる。
 結衣はそこで止まらなかった。今止まったら、また全部飲み込んでしまう気がしたからだ。

「お兄ちゃん、答えを残したかったんじゃないと思う」
「ただ、私がちゃんと言えたって、覚えててくれたんだと思う」

 話しながら、結衣は自分でも言葉の足りなさを感じていた。
 説明しきれていない。順番もきっと不格好だ。
 それでも今は、それでいいと思った。うまく言えないままでも、止めないことのほうが大事だった。

「だから、お母さんにも聞いてほしい」

 声が少しだけ弱くなる。
 けれど、そこにある気持ちは前よりずっとはっきりしていた。

「お兄ちゃんの声を、っていうだけじゃなくて」
「これを……知ってほしい」

 母はすぐには答えなかった。

 台所の明かりの下で、布巾を持ったまま立っている。視線は結衣に向いているのに、まだその先へ一歩踏み出せないでいるのがわかった。

 結衣も同じだった。
 怖さが消えたわけじゃない。むしろ、いまのほうがよくわかっているぶん、余計に怖い。

 それでも、逃げないで、と口にした以上、自分もここで引きたくなかった。

 静かな時間が落ちる。

 冷蔵庫の低い音。
 壁の時計の針。
 その全部の向こうで、母が小さく息を吐いた。

 ほんの少しだけ、肩の力が抜けたように見えた。

 結衣はその変化を見逃さなかった。

 まだ約束にはなっていない。
 今すぐ再生ボタンを押せるわけでもない。
 でも、背を向けて終わる夜ではもうなかった。

 言葉は足りなかった。
 それでも、逃げずに置いた言葉は、前より少しだけ相手の近くに残った気がした。