その夜、結衣はもう一度だけ、リビングへ下りた。
話は途中のままだった。
母は何も答えなかったし、結衣もそれ以上は押せなかった。無理に続けたら、また前みたいに全部が閉じてしまう気がしたからだ。
けれど、あのまま何も言わずに自分の部屋へ戻ってしまったら、きっとまた同じところへ戻る。そう思うと、胸の奥が落ち着かなかった。
台所には明かりがついていた。
母は流し台の前に立って、洗い終えたコップを布巾で拭いていた。水音はもう止まっていて、食器と食器が触れる小さな音だけが、ときどき静かな部屋に響く。
結衣は入り口のところで立ち止まる。
何か言ったほうがいいのか。
それとも、今はもうやめたほうがいいのか。
迷っているうちに、母のほうが先に口を開いた。
「聞いたら」
それだけ言って、声が止まる。
結衣は息をひそめた。
母は振り返らない。コップを拭く手も、途中で少しだけ止まったままだ。
「聞いたら、あの子が……」
その続きがなかなか出てこない。
まるで、言葉にすること自体が重たくて、喉の奥から一つずつ引っぱり出しているみたいだった。
「もう、いないって」
「ちゃんと、わかっちゃうでしょう」
最後のほうは、独り言に近かった。
結衣はその場で動けなくなる。
意味が、すぐには胸の中へ落ちてこなかった。
言葉としては聞き取れているのに、その言葉が指しているものの重さが、少し遅れて結衣の中へ沈んでいく。
聞いてしまったら、兄の声は“まだそこにあるもの”ではなくなる。
ただ、残っているだけのものになる。
もうここにはいない人の声だと、はっきり認めることになる。
母は、それが怖かったのだ。
思い出したくないんじゃない。
忘れたいわけでもない。
兄のことをどうでもいいと思っているわけでも、ましてや結衣が感じていたみたいに、兄の話題を遠ざけて平気でいたわけでもない。
ただ、近づいたら壊れるのがわかっているから、近づけなかった。
結衣はゆっくりと、台所の中へ一歩だけ入る。
母の背中は、思っていたよりずっと小さく見えた。
いや、本当に小さいわけではないのだろう。ただ、今まで結衣が見ようとしてこなかっただけで、母もずっと一人で何かを抱えたまま、そこに立っていたのだとわかった。
「お母さん……」
呼びかけても、母はすぐには返事をしなかった。
布巾を持つ手が、少し強く握られている。指の関節が白くなっているのが、横からでも見えた。
「声って、だめなの」
「写真とか、服とかより……」
「聞こえたら、ほんとに、そこにいるみたいで」
そこで母は一度だけ息を詰まらせた。
泣き声ではない。けれど、泣き声よりもずっとこらえている音だった。
「なのに、終わったらいないでしょう」
「それが……」
続きを最後まで言えないまま、母は言葉を切った。
結衣は唇をきゅっと閉じる。
やっと、わかった気がした。
母は兄の声から逃げていたのではなく、その“終わったあとの静けさ”が怖かったのだ。聞いているあいだだけ一瞬戻ってくるみたいに感じるぶん、そのあとで、もういないことが前よりはっきりしてしまう。
それは結衣にだって、わかる。
兄の声を初めて聞いた夜、安心してしまったぶんだけ、停止したあとの部屋の静けさが苦しかった。何度再生しても、最後には必ず無音へ戻ってしまうことが怖かった。
母も、同じだったのだ。
同じか、それ以上に。
結衣はそこで、胸の中の怒りが少し形をなくしていくのを感じた。
聞いてくれなかったことはまだ痛い。けれど、その痛みの向こうに、母のほうにも同じくらい深い痛みがあったのだと、ようやく見えた。
台所の時計が小さく鳴る。
冷蔵庫のモーター音が、やけに大きく聞こえる。
母はやっとコップを拭き終えて、でもすぐには棚に戻さなかった。両手で持ったまま、ただそこに立っている。
結衣はその背中を見ながら、もう一歩だけ近づいた。
聞けないこともまた、失った人を抱えたまま止まってしまう、一つの形なのだとそのとき初めて知った。
話は途中のままだった。
母は何も答えなかったし、結衣もそれ以上は押せなかった。無理に続けたら、また前みたいに全部が閉じてしまう気がしたからだ。
けれど、あのまま何も言わずに自分の部屋へ戻ってしまったら、きっとまた同じところへ戻る。そう思うと、胸の奥が落ち着かなかった。
台所には明かりがついていた。
母は流し台の前に立って、洗い終えたコップを布巾で拭いていた。水音はもう止まっていて、食器と食器が触れる小さな音だけが、ときどき静かな部屋に響く。
結衣は入り口のところで立ち止まる。
何か言ったほうがいいのか。
それとも、今はもうやめたほうがいいのか。
迷っているうちに、母のほうが先に口を開いた。
「聞いたら」
それだけ言って、声が止まる。
結衣は息をひそめた。
母は振り返らない。コップを拭く手も、途中で少しだけ止まったままだ。
「聞いたら、あの子が……」
その続きがなかなか出てこない。
まるで、言葉にすること自体が重たくて、喉の奥から一つずつ引っぱり出しているみたいだった。
「もう、いないって」
「ちゃんと、わかっちゃうでしょう」
最後のほうは、独り言に近かった。
結衣はその場で動けなくなる。
意味が、すぐには胸の中へ落ちてこなかった。
言葉としては聞き取れているのに、その言葉が指しているものの重さが、少し遅れて結衣の中へ沈んでいく。
聞いてしまったら、兄の声は“まだそこにあるもの”ではなくなる。
ただ、残っているだけのものになる。
もうここにはいない人の声だと、はっきり認めることになる。
母は、それが怖かったのだ。
思い出したくないんじゃない。
忘れたいわけでもない。
兄のことをどうでもいいと思っているわけでも、ましてや結衣が感じていたみたいに、兄の話題を遠ざけて平気でいたわけでもない。
ただ、近づいたら壊れるのがわかっているから、近づけなかった。
結衣はゆっくりと、台所の中へ一歩だけ入る。
母の背中は、思っていたよりずっと小さく見えた。
いや、本当に小さいわけではないのだろう。ただ、今まで結衣が見ようとしてこなかっただけで、母もずっと一人で何かを抱えたまま、そこに立っていたのだとわかった。
「お母さん……」
呼びかけても、母はすぐには返事をしなかった。
布巾を持つ手が、少し強く握られている。指の関節が白くなっているのが、横からでも見えた。
「声って、だめなの」
「写真とか、服とかより……」
「聞こえたら、ほんとに、そこにいるみたいで」
そこで母は一度だけ息を詰まらせた。
泣き声ではない。けれど、泣き声よりもずっとこらえている音だった。
「なのに、終わったらいないでしょう」
「それが……」
続きを最後まで言えないまま、母は言葉を切った。
結衣は唇をきゅっと閉じる。
やっと、わかった気がした。
母は兄の声から逃げていたのではなく、その“終わったあとの静けさ”が怖かったのだ。聞いているあいだだけ一瞬戻ってくるみたいに感じるぶん、そのあとで、もういないことが前よりはっきりしてしまう。
それは結衣にだって、わかる。
兄の声を初めて聞いた夜、安心してしまったぶんだけ、停止したあとの部屋の静けさが苦しかった。何度再生しても、最後には必ず無音へ戻ってしまうことが怖かった。
母も、同じだったのだ。
同じか、それ以上に。
結衣はそこで、胸の中の怒りが少し形をなくしていくのを感じた。
聞いてくれなかったことはまだ痛い。けれど、その痛みの向こうに、母のほうにも同じくらい深い痛みがあったのだと、ようやく見えた。
台所の時計が小さく鳴る。
冷蔵庫のモーター音が、やけに大きく聞こえる。
母はやっとコップを拭き終えて、でもすぐには棚に戻さなかった。両手で持ったまま、ただそこに立っている。
結衣はその背中を見ながら、もう一歩だけ近づいた。
聞けないこともまた、失った人を抱えたまま止まってしまう、一つの形なのだとそのとき初めて知った。
