きみの録音ボタンが消えるまで

 翌日の夜、結衣はレコーダーを持ったまま、リビングの前でしばらく立ち止まっていた。

 前に母へ兄の声のことを話したときの空気を、まだ覚えている。
 「やめて」と言われた声の低さも、その一言で自分の言葉が全部床に落ちたみたいに感じたことも、はっきり残っていた。

 だから、本当ならまた持ち出すのは怖かった。

 けれど今は、前とは少しだけ違う。

 あの音声は、ただ“兄の声が残っていた”というだけのものではなかった。
 結衣を過去に引き戻すだけのものでもない。
 兄が自分をどう見ていたか、その記録だった。
 自分が忘れていた“言えたことがある声”を、兄だけはちゃんと覚えていた証拠だった。

 それを知ってしまった今、結衣はもう、それを自分だけのものみたいに抱えているのが少し違う気がしていた。

 母にも聞いてほしい。

 聞いたら痛いかもしれない。
 でも、痛いだけじゃないかもしれない。
 兄はたぶん、結衣だけに何かを残したかったわけではなくて、止まってしまった家の時間のどこかにも、声を置いていたのかもしれないと思った。

 リビングの中では、テレビの音が小さく流れていた。
 母はソファの端に座って、視線だけを画面へ向けている。見ているようで、きっとあまり頭には入っていないのだろうと、結衣にはわかった。

「お母さん」

 呼ぶと、母は少しだけ肩を動かして振り向いた。

「……なに」

 前と同じ返し方だ。
 それだけで、結衣の喉は少し縮む。

 でも今は、そこで引っ込めたくなかった。

 結衣はレコーダーを胸の前で持ち直す。
 前のように“守る”みたいに抱えるのではなく、少しだけ相手へ向ける形で。

「この前の、レコーダーのことなんだけど」

 母の表情が、そこで少し固くなる。
 結衣にはそれがちゃんと見えた。見えたけれど、目をそらさなかった。

「前とは、ちがうの」

 母は何も言わない。
 テレビの音だけが、場違いなくらい明るく流れている。

 結衣は一度だけ息を吸ってから続けた。

「お兄ちゃんが、何か残してたっていうより」
「……私のこと、見てたのがわかったの」

 自分でも、うまく説明できている気はしなかった。
 言葉は足りないし、順番もたぶんきれいじゃない。
 でも今は、それでも出したかった。

 母はゆっくり視線を落とし、結衣の手の中のレコーダーを見る。
 前みたいにすぐ目をそらしはしなかった。
 それだけで、結衣は少しだけ胸の奥が動くのを感じる。

「小さいころの、私の声が入ってたの」
「たった一言だけなんだけど……ちゃんと言えてるやつ」
「そのあと、お兄ちゃんが」

 そこまで言って、結衣は少し詰まる。
 兄の言葉を思い出すと、それだけで胸の奥が熱くなるからだ。

「……ちゃんと言えた、って」

 母の指先が、ソファの布を少しだけつかむ。
 その小さな動きが、結衣には大きく見えた。

 前ならここで、母はもうやめてと言ったかもしれない。
 でも今は違う。固くなってはいる。それでも、背を向けてはいない。

「聞いてほしいの」

 結衣は小さく言った。

「お兄ちゃんの声を、っていうだけじゃなくて」
「これを……知ってほしい」

 母はすぐには答えなかった。
 沈黙が落ちる。

 でもその沈黙は、前の拒絶の沈黙とは少し違っていた。
 まだ怖がっている。まだ近づけていない。
 けれど、完全に閉じてもいない。

 結衣はその違いを、はっきり感じた。

 拒まれるかもしれない怖さの中で、それでも話しかけたこと自体が、もう前とは少し違っていた。