きみの録音ボタンが消えるまで

 準備室の扉を開けると、律はもうヘッドホンを片耳だけ外して待っていた。

 外はすっかり夕方の色になっていて、窓の向こうの空は薄い青と灰色のあいだで止まっている。部屋の中は静かだった。パソコンのファンの音と、機材の小さなランプだけが、そこに誰かがいることをかろうじて知らせている。

 結衣は扉を閉めてからも、すぐには中へ入れなかった。

「……聞けそう?」

 自分で送ったくせに、声は思ったより弱かった。

 律は大げさにうなずいたりはせず、ただ画面を少し結衣のほうへ向けた。

「ノイズ多いけど」
「全部じゃない」
「でも、たぶん意味はわかる」

 その言い方が、かえって結衣を緊張させた。

 全部じゃない。
 でも意味はわかる。

 それはつまり、これから自分が知ろうとしているものが、曖昧なままでも十分に自分を揺らす何かだということだった。

 律がヘッドホンを差し出す。
 結衣はそれを受け取って耳に当てた。手のひらが少し湿っている。

「準備、いい?」

 そう聞かれて、結衣はすぐに答えられなかった。
 いいわけがない、と思った。
 でも、ここまで来て「まだ」と言えるほど後ろには下がれない。

「……うん」

 律が再生ボタンを押す。

 最初は、ざらついたノイズだった。
 遠くで何かがこすれる音。人の気配。少し広い場所の反響。
 結衣は知らないうちに息を止めていた。

 そのまま数秒が過ぎる。

 何もないのでは、と不安が胸をよぎりかけた、そのときだった。

「……ありがとうございました」

 少し高い声が、ノイズの奥からふいに浮かんだ。

 結衣は目を見開く。

 今の声。
 緊張していて、語尾が少し揺れていて、でも最後まで言い切ろうとしている小さな声。

 自分だ。

 小さいころの、自分の声だ。

 意味がわからず、結衣は一度だけ瞬きをする。
 イヤホンの向こうでは、小さな拍手が少し遅れて起きていた。体育館か、教室か、詳しい場所までは思い出せない。でも、その空気の感じだけは妙にはっきりわかる。

 みんなの前に立たされて、胸が苦しくて、足が変に冷たくなって、それでもなんとか一言だけ言った、あの感じ。

 結衣はその場面を、ぼんやりと思い出しかける。
 たぶん低学年のころだ。学年発表か、何かの会での短いあいさつ。とにかく、言うのが怖かった。なのに逃げられなくて、声がうまく出なくて、それでも最後に一言だけ言えた。

 その記憶の輪郭が戻ってくるのとほぼ同時に、今度は少し離れた場所で兄の声がした。

「ほら、結衣、ちゃんと言えた」

 その声は、小さかった。

 誰かに聞かせるための声じゃない。
 結衣をその場で励まそうとして出した声でもない。
 ただ、その瞬間がうれしくて、安心して、思わず口からこぼれたみたいな声だった。

 結衣はそこでようやく息を吸った。

 違う。

 思っていたのと、全然違う。

 壊れたファイルの向こうにあるのは、ずっと“今の自分への答え”だと思っていた。
 大丈夫だとか、がんばれとか、ちゃんとできるとか。今の結衣をそのまま支えてくれる、まっすぐな言葉が入っているのだと、どこかで信じていた。

 でも、そうじゃなかった。

 聞こえてきたのは、もっと前の自分だった。
 まだ今よりもっと言えなかったころの、小さな声だった。
 そして兄は、そのときの結衣をちゃんと見ていた。

 “こうしろ”ではなく。
 “こうなれ”でもなく。
 “ほら、言えた”だった。

 結衣はヘッドホンを外せなかった。
 たったそれだけの短い音声なのに、耳から離したら意味までほどけてしまいそうで、指先が動かなかった。

 律が横で何か言おうとして、でも結局黙った気配がする。
 その沈黙がありがたかった。

 結衣の中では、いくつもの気持ちが少しずつ順番を変えながら押し寄せてきていた。

 拍子抜け。
 戸惑い。
 そして、そのあとに遅れてくる、言葉にならない重さ。

 兄は答えを残していたんじゃない。
 兄は結衣に、足りないものを渡そうとしていたんじゃない。

 もっと前から、結衣の中にあったものを、結衣より先に見つけていただけだ。

 言えなかった子じゃなくて、言えたことがある子として見ていた。

 そのことが、思っていたよりずっと重かった。

 「大丈夫」より重い。
 「がんばれ」より重い。
 だってそれは未来の約束じゃない。兄が勝手に信じた理想でもない。ほんとうに、結衣が一度はできたことの記録だからだ。

 結衣はもう一度だけ、その音声を聞きたいと思った。
 今度は“何が入っているか確かめるため”じゃなく、“兄が何を見ていたのか受け取るため”に。

「……もう一回、いい?」

 声に出すと、自分でも少しかすれていた。

 律はうなずき、無言のまま再生を戻した。

 もう一度、幼い自分の声が流れる。

「……ありがとうございました」

 短い。
 頼りない。
 でも、たしかに言えている。

 続いて兄の声。

「ほら、結衣、ちゃんと言えた」

 その言葉を聞いた瞬間、結衣の目の奥が熱くなった。
 泣くつもりなんてなかったのに、視界の端が少し揺れる。

 兄はたぶん、あの日の結衣を見ていた。
 前に立つのが怖くて、たった一言で精いっぱいで、それでも逃げずに声を出した結衣を。
 そしてそのことを、ずっと覚えていた。

 結衣が忘れてしまっていても。
 自分ではできなかったことばかり数えていても。

 兄だけは、言えた瞬間を知っていた。

 それは、遺言なんかよりずっと重い気がした。

 結衣はようやくヘッドホンを外す。

 準備室の空気が戻ってくる。
 でも、さっきまでとは少し違う。何か大きな勘違いが静かにほどけて、そのぶんだけ別のものが胸に残っていた。

「……思ってたのと、違った」

 ぽつりとこぼすと、律は短く「うん」とだけ返した。

「でも」
「……」
「たぶん、そのほうが大きいね」

 律の言葉は短かった。
 結衣はそれにすぐ返事をしなかった。できなかったとも言える。

 兄が残していたのは、答えじゃなかった。
 結衣はもう言えると、ずっと前から知っていた証拠だった。

 その音声は、結衣を過去へ引き戻すためじゃなく、たぶん前へ返すために残っていた。