その日の放課後、結衣は教室の窓際でプリントをそろえていた。
昼休みの録音分を提出用にまとめるだけの、たいした作業ではない。紙を重ねて、順番をそろえて、クリップで留める。それだけのことなのに、指先が少し落ち着かなかった。真帆の録音を聞いたあとの余韻が、まだ胸のどこかに残っていたからかもしれない。
窓の外では、校庭の端を通る生徒たちの影が長く伸びている。部活へ向かう声、ボールが弾む音、遠くから聞こえる笛の音。学校はいつも通りの夕方に向かっているのに、結衣の中だけが少しだけ浮いていた。
ポケットの中で、スマホが短く震えた。
結衣の指が止まる。
たったそれだけの小さな振動だったのに、胸の内側が一気にざわつく。最近の結衣にとって、通知音や振動は、それだけで意味を持ちすぎるようになっていた。律かもしれない。違うかもしれない。違っていてほしいような、でも違っていたら少し落ち込むような、変な気持ちでスマホを取り出す。
画面に出ていた名前を見た瞬間、結衣は息を止めた。
律だった。
開く。
メッセージは短かった。
たぶん聞ける。
その一文だけで、喉の奥が急に乾いた。
たぶん聞ける。
壊れたファイルの続きが。
あの「結衣は――」の先が。
兄が、自分に向かって言おうとしていた言葉が。
結衣はしばらく画面を見つめたまま動けなかった。
たった六文字と句点ひとつなのに、その中に詰まっているものが多すぎて、すぐには飲み込めない。
知りたい。
ずっと知りたかった。
ここまで気にして、ここまで引っぱられてきたのだから、本当なら飛び上がるようにうれしくてもよかったはずだ。
でも実際には、うれしさより先に怖さが来た。
もしそこに、自分が思っていたような言葉が入っていなかったら。
もし兄はただ別の話をしていただけで、自分への何かなんて何も残していなかったら。
もし、これまで結衣が“答え”みたいに思っていたものが、全部ただの思い込みだったら。
教室の後ろで椅子を引く音がした。
誰かが笑う。
廊下を走る足音が通り過ぎる。
世界は何も変わらず動いているのに、結衣の中だけ、一度ぴたりと止まってしまったみたいだった。
「朝倉さん?」
少し離れた席で鞄をまとめていた真帆が、不思議そうに顔を向ける。
「どうしたの、固まってる」
「……え」
「なんか来た?」
結衣はあわててスマホを握り直した。
画面を伏せそうになって、でもそれも変だと思い直し、ただ小さくうなずく。
「うん」
「いいやつ? 悪いやつ?」
「……まだ、わかんない」
自分でも少し変な返事だと思った。
真帆はそれ以上深く聞かず、「そっか」とだけ言って肩をすくめる。その距離の取り方に、今は少し助けられる。
結衣はもう一度、画面を見る。
たぶん聞ける。
短い。
短いからこそ、そこに余白がありすぎた。
「聞けた」ではない。
「たぶん聞ける」だ。
まだ確定ではない。
でも、今までの“もしかしたら”よりはずっと近い。
期待しすぎないほうがいい。
律は前にそう言った。
その言葉を思い出しても、もう遅かった。
期待はしていないつもりでも、体のほうが先に緊張している。指先が少し冷えて、心臓だけがやけにうるさい。
結衣は親指で文字を打ち込む。
今から行ってもいい?
送信する。
既読がつくまでの数秒が、ひどく長かった。
黒い画面の上に、小さく「既読」がつく。
そのすぐあとに、律から返事が来た。
準備室いる
それを見た瞬間、結衣の肩が小さく揺れた。
逃げられない、と思った。
いや、逃げたくないのに、今になって初めて逃げ道のことを考えてしまった。
ここまで来たら知りたい。
けれど、知ることはいつも救いだけではない。
兄の声が残っていたことを知った夜から、結衣は何度もそれを思い知らされてきた。
それでも、行かなければならない。
結衣はプリントをまとめ終えたふりをして、机の上を整える。
指先の動きが少しぎこちない。真帆がその様子を横目で見て、「大丈夫?」と小さく聞いた。
「……うん」
「ほんとに?」
「うん。ちょっと、準備室行ってくる」
真帆は一瞬だけ結衣の顔を見て、それから深追いしないままうなずいた。
「了解。私、先に下駄箱行ってるね」
その言い方がありがたかった。
今は説明する余裕がない。兄のことも、壊れた音声のことも、誰かに話すにはまだ自分の中で大きすぎる。
結衣は鞄を肩にかける。
立ち上がった瞬間、足元が少しだけ頼りなく感じた。
たぶん聞ける。
その一言が、胸の内側で何度も反響する。
知りたいのに、知る直前になって初めて、それがこわいことだと結衣ははっきり理解した。
期待は、ときどき希望より先に人を縛る。
結衣はそれを感じながら、準備室へ向かう廊下を歩き出した。
昼休みの録音分を提出用にまとめるだけの、たいした作業ではない。紙を重ねて、順番をそろえて、クリップで留める。それだけのことなのに、指先が少し落ち着かなかった。真帆の録音を聞いたあとの余韻が、まだ胸のどこかに残っていたからかもしれない。
窓の外では、校庭の端を通る生徒たちの影が長く伸びている。部活へ向かう声、ボールが弾む音、遠くから聞こえる笛の音。学校はいつも通りの夕方に向かっているのに、結衣の中だけが少しだけ浮いていた。
ポケットの中で、スマホが短く震えた。
結衣の指が止まる。
たったそれだけの小さな振動だったのに、胸の内側が一気にざわつく。最近の結衣にとって、通知音や振動は、それだけで意味を持ちすぎるようになっていた。律かもしれない。違うかもしれない。違っていてほしいような、でも違っていたら少し落ち込むような、変な気持ちでスマホを取り出す。
画面に出ていた名前を見た瞬間、結衣は息を止めた。
律だった。
開く。
メッセージは短かった。
たぶん聞ける。
その一文だけで、喉の奥が急に乾いた。
たぶん聞ける。
壊れたファイルの続きが。
あの「結衣は――」の先が。
兄が、自分に向かって言おうとしていた言葉が。
結衣はしばらく画面を見つめたまま動けなかった。
たった六文字と句点ひとつなのに、その中に詰まっているものが多すぎて、すぐには飲み込めない。
知りたい。
ずっと知りたかった。
ここまで気にして、ここまで引っぱられてきたのだから、本当なら飛び上がるようにうれしくてもよかったはずだ。
でも実際には、うれしさより先に怖さが来た。
もしそこに、自分が思っていたような言葉が入っていなかったら。
もし兄はただ別の話をしていただけで、自分への何かなんて何も残していなかったら。
もし、これまで結衣が“答え”みたいに思っていたものが、全部ただの思い込みだったら。
教室の後ろで椅子を引く音がした。
誰かが笑う。
廊下を走る足音が通り過ぎる。
世界は何も変わらず動いているのに、結衣の中だけ、一度ぴたりと止まってしまったみたいだった。
「朝倉さん?」
少し離れた席で鞄をまとめていた真帆が、不思議そうに顔を向ける。
「どうしたの、固まってる」
「……え」
「なんか来た?」
結衣はあわててスマホを握り直した。
画面を伏せそうになって、でもそれも変だと思い直し、ただ小さくうなずく。
「うん」
「いいやつ? 悪いやつ?」
「……まだ、わかんない」
自分でも少し変な返事だと思った。
真帆はそれ以上深く聞かず、「そっか」とだけ言って肩をすくめる。その距離の取り方に、今は少し助けられる。
結衣はもう一度、画面を見る。
たぶん聞ける。
短い。
短いからこそ、そこに余白がありすぎた。
「聞けた」ではない。
「たぶん聞ける」だ。
まだ確定ではない。
でも、今までの“もしかしたら”よりはずっと近い。
期待しすぎないほうがいい。
律は前にそう言った。
その言葉を思い出しても、もう遅かった。
期待はしていないつもりでも、体のほうが先に緊張している。指先が少し冷えて、心臓だけがやけにうるさい。
結衣は親指で文字を打ち込む。
今から行ってもいい?
送信する。
既読がつくまでの数秒が、ひどく長かった。
黒い画面の上に、小さく「既読」がつく。
そのすぐあとに、律から返事が来た。
準備室いる
それを見た瞬間、結衣の肩が小さく揺れた。
逃げられない、と思った。
いや、逃げたくないのに、今になって初めて逃げ道のことを考えてしまった。
ここまで来たら知りたい。
けれど、知ることはいつも救いだけではない。
兄の声が残っていたことを知った夜から、結衣は何度もそれを思い知らされてきた。
それでも、行かなければならない。
結衣はプリントをまとめ終えたふりをして、机の上を整える。
指先の動きが少しぎこちない。真帆がその様子を横目で見て、「大丈夫?」と小さく聞いた。
「……うん」
「ほんとに?」
「うん。ちょっと、準備室行ってくる」
真帆は一瞬だけ結衣の顔を見て、それから深追いしないままうなずいた。
「了解。私、先に下駄箱行ってるね」
その言い方がありがたかった。
今は説明する余裕がない。兄のことも、壊れた音声のことも、誰かに話すにはまだ自分の中で大きすぎる。
結衣は鞄を肩にかける。
立ち上がった瞬間、足元が少しだけ頼りなく感じた。
たぶん聞ける。
その一言が、胸の内側で何度も反響する。
知りたいのに、知る直前になって初めて、それがこわいことだと結衣ははっきり理解した。
期待は、ときどき希望より先に人を縛る。
結衣はそれを感じながら、準備室へ向かう廊下を歩き出した。
