きみの録音ボタンが消えるまで

 真帆の録音を保存して、データの確認のために準備室へ戻ると、律はいつもの席でパソコンの画面を見ていた。

 外はもう夕方に近く、窓の向こうの光が少しだけ青くなっている。準備室の中には、機材のランプとパソコンの画面だけが静かに明るかった。真帆は「自分の録音、聞かれるのやっぱちょっと恥ずいんだけど」と言いながらも、結局そのまま椅子の背にもたれている。

 律がヘッドホンを片耳だけ外し、音声データを開く。
 波形が画面の上に細かく並ぶ。声の大きさや間の長さが、線の形になってそこに見えていた。

「これ」

 律が短く言った。

「いい」

 真帆がすぐに顔を上げる。

「え、どこが?」
「めっちゃつっかえてるけど」
「そこ」

 律はそれ以上すぐには説明しなかった。
 真帆の録音の波形を目で追うみたいに、しばらく画面を見てから、ようやく続ける。

「うまく言えてない声って、たぶんほんとだから」

 言い方は、相変わらず淡々としていた。
 誰かを励まそうとしているふうでもなく、正しいことを教えようとしているふうでもない。ただ、そこにあるものを、そのまま見たまま口にしたような声だった。

 真帆は一瞬きょとんとして、それから少し笑った。

「なにそれ。なんかムカつかない名言みたい」
「名言にしてないし」
「いや、ちょっとしてた」

 真帆が笑う。
 律は「してない」ともう一度だけ言って、波形の一番高いところを指で示した。

「ここ、止まりかけてるけど、そのあとちゃんと出てる」
「だから残る」
「へえ……」

 真帆は自分の録音なのに、少しだけ他人のものみたいな顔で画面をのぞき込んでいる。

 結衣はそのやりとりを横で見ながら、なぜかすぐには声が出なかった。

 うまく言えてない声って、たぶんほんとだから。

 その言葉が、思っていた以上に深く入ってきたからだ。

 結衣はこれまでずっと、“うまく言えない”ことを直さなければいけないものだと思っていた。詰まること、迷うこと、途中で言い直すこと、声が震えること。そういうものは、消せるなら消したほうがいいものだと思っていた。

 兄の音声に対してさえ、どこかでそうだった。
 何度も言い直して、途中で止まって、完成しないまま終わる声たちを聞きながらも、結衣はその先にもっと“ちゃんとした答え”があるはずだと思っていた。

 でも、もしかしたら違うのかもしれない。

 兄が何度も言い直していたこと。
 真帆が息をつまらせながら、それでも祖母へ言葉を届けたこと。
 先生が少し間を置いて、何か別のことを言おうとしかけたこと。
 それらは全部、“うまく言えていない”ところに本当の気持ちが出ていたのかもしれない。

 結衣は机の端に置かれた小さなマイクを見る。
 ただ音を拾うだけの機械なのに、その前に立つと人は急に正直になる。整っていない呼吸も、言い直しも、笑ってごまかそうとする癖も、全部少しずつ残ってしまう。

 そして、それを“悪いもの”として消すのではなく、そのままいいと言う人が、ここにはいる。

「朝倉さん、どうしたの」

 真帆に言われて、結衣ははっとした。

「いや、なんか、さ」
「うん?」
「ちょっと、わかる気する」

 自分でも少し驚くくらい素直に、そう言っていた。

 真帆は「でしょ」と得意そうに笑う。
 律は特に反応を大きく返さず、ただ次のデータを開いていく。そのいつも通りの態度が、結衣にはかえってありがたかった。

 大きく励まされるわけではない。
 「そのままでいい」と強く言われるわけでもない。
 でも、整っていないものの中にちゃんと意味があると、さりげなく置いてくれる。

 それだけで、胸の奥の“ちゃんとしなきゃ”が少しだけほどける。

「……うまく言えなくても、残していいんだね」

 結衣がほとんど独り言みたいにこぼすと、律は画面を見たまま言った。

「残るほうが先かも」
「え?」
「うまく言えなくても、残るものは残る」

 短い言葉だった。
 でも、その短さのまま、結衣の中に静かに落ちる。

 整っていないことが、そのまま嘘じゃなさになるのかもしれない。
 結衣はそのとき初めて、ずっと“直さなければいけない”と思っていた部分を、少しだけそのまま置いてもいいのかもしれないと思えた。