きみの録音ボタンが消えるまで

 家に帰ってからの時間は、いつも静かに過ぎる。

 母は夕飯の支度をしていて、結衣は「ただいま」と言い、「おかえり」と返される。それだけで会話はひとまず終わる。学校であったことを聞かれることも、結衣のほうから話すことも、ほとんどない。

 今日は校内放送の係になったことを言おうかと思った。けれど、朝と同じように、口の手前まで来た言葉は形にならなかった。

「もうすぐごはんだから」
「うん」

 返事はそれだけで十分みたいに、夜はそのまま流れていく。

 夕食を終えて、食器を流しへ運び、自分の部屋へ戻る。ドアを閉めた瞬間、ようやく肩の力が少しだけ抜けた。

 制服のまま机の前に座る。鞄を椅子の背にかけて、教科書を出そうとして、結衣の手は途中で止まった。

 そのまま机のいちばん下の引き出しを開ける。

 中にはノートや文房具にまぎれて、小さな布のポーチが入っている。紺色の、なんでもないポーチだ。誰かに見つかっても特別なものには見えない。それなのに、結衣にとっては、そこだけ少し空気のちがう場所だった。

 ファスナーを開け、中から古いICレコーダーを取り出す。

 角のひとつに、白っぽい擦り傷がある。兄が前に「また落とした」と笑っていた跡だ。そんな何でもない記憶だけが、変に細かく残っている。

 結衣はレコーダーを掌にのせたまま、しばらく何もせず見つめた。液晶は暗く、ボタンの文字も少し薄くなっている。新しい機械ではない。兄が使っていたままの、少し古い手触りがある。

 それでも、この機械の前にいるときだけは、結衣は息をしやすかった。

 録音ボタンを押す。

 小さな赤いランプがつく。

 それを見てから、結衣はようやく息を吐いた。

「……今日も、断れなかった」

 誰に聞かせるわけでもない声は、教室で出す声よりずっと小さいのに、ずっと本当だった。

「ほんとは、やりたくなかった。放送の係とか」
「向いてないのに」
「でも、またはいって言っちゃった」

 部屋の中は静かだ。外では、どこかの家のテレビの音が遠くに聞こえる。窓の向こうを車が通る気配もする。でも、この小さな録音のあいだだけは、そういう音が少し遠くなる。

 結衣は机に片肘をついて、視線を落とした。

「お母さんにも言おうとしたけど、やっぱり無理だった」
「別に怒られるわけじゃないのに」
「なんでいつも、言う前にだめになるんだろ」

 少しだけ間が空く。

 こういうことを、誰かに面と向かって言える気はしない。生きている相手に向かって言葉を出そうとすると、どうしても相手の顔色が先に気になってしまう。困らせるかもしれない、変に思われるかもしれない、そんなことを考えているうちに、気持ちはどんどん後ろへ下がっていく。

 けれどレコーダーは、何も言わない。黙って赤いランプをつけたまま、結衣の声を受け取るだけだ。

 返事がないから、怖くない。

 結衣は小さく笑うように息を吐いた。

「私、なんでいつも大丈夫って言っちゃうんだろ」

 言い終わると、それ以上は続けなかった。

 話したいことが全部出たわけではない。まだ喉の奥に残っているものもある。でも、今日はここまででいいと思えた。

 停止ボタンを押す。赤いランプが消える。

 それだけで、少しだけ一日が自分のものに戻る気がした。

 結衣は再生はしない。いつもそうだ。吹き込んだ言葉を自分で聞き返すことは、ほとんどない。話したら終わり。ここに置いていくだけでいい。

 レコーダーをしまおうとして、結衣は一瞬だけ指を止めた。

 液晶の小さな画面を見つめる。今日録ったファイルが増えている。その下には、これまでの自分の声がいくつも並んでいるはずだった。

 返事のない相手にだけ、結衣はちゃんと話せた。
 たぶん話したいというより、今日のしんどさを、どこかに置いていきたかったのかもしれない。