きみの録音ボタンが消えるまで

 放課後、真帆は「じゃあ、今日こそちゃんと録る」と言って、昨日と同じ空き教室に入った。

 窓の外は薄く曇っていて、春の光は白くやわらかかった。教室の中には誰もいない。机をひとつ窓際に寄せ、マイクを置くと、それだけで小さな録音室みたいな空気になる。

 前にもここで、真帆は祖母への言葉につまずいた。
 笑ってごまかして、でも最後には少し泣きそうになっていた。
 結衣はその姿を思い出しながら、録音機を手の中で持ち直す。

「いけそう?」

 自分でも少し驚くくらい、自然にそう聞けた。

 真帆は机の前に立ったまま、肩をすくめる。

「半々」
「半々」
「いける気もするし、また途中で変な笑い方しそうな気もする」

 そう言って真帆は笑った。
 でも、その笑いの奥にある緊張を、結衣は前より少しだけわかる気がした。笑っているから平気なのではなく、緊張しているから笑ってしまうこともあるのだと、今は知っている。

 結衣は録音ボタンに指を置く。

 前なら、この沈黙が怖かった。
 何か言わなければと思っていた。
 準備はいいか、始めるよ、緊張しなくていいよ、そういう言葉で空白を埋めようとしていた。

 でも今は、沈黙は埋めるものじゃないのかもしれないと思う。
 言葉が出てくるまでの時間ごと、その人の気持ちなのかもしれない。

「……押すね」

 結衣が言うと、真帆は小さくうなずいた。

 赤いランプがつく。

「おばあちゃん」

 真帆の声は、前より静かだった。

「いつも、お菓子送ってくれてありがとう」

 そこで少しだけ間が空く。
 真帆の喉が小さく動くのが見える。

 結衣は何も言わない。
 大丈夫、急がなくていい。
 本当はそう言いたかった。けれど今は、言葉にするより先に待つことのほうが大事な気がした。

 真帆は一度だけ目を閉じ、呼吸を整える。

「あと……電話だと元気なふりしちゃうけど」
「ほんとは、会いたいです」

 声が少し揺れる。

 そこでもう一度、前なら結衣は「切る?」とか「もう一回にする?」とか言っていたかもしれない。沈黙が怖くて、相手が困っているように見えると、自分まで焦ってしまっていたからだ。

 でも今は違った。

 言葉に詰まることが、そのまま失敗だとは思わない。
 言えなくて止まることも、言おうとしている途中なのだと、少しだけわかる。

 真帆はゆっくり息を吸った。

「また、ちゃんと会いに行くね」

 最後の一言は、笑いながら言ったのか、泣きそうなのをこらえながら言ったのか、たぶんその両方だった。声はきれいじゃなかった。少しだけ震えていて、途中の呼吸もそのまま入っている。

 でも結衣には、その声が前よりずっとまっすぐ届いた。

 録音が終わっても、結衣はすぐには停止ボタンを押さなかった。
 最後に残った小さな息まで、そのまま残したかったからだ。

 やがて真帆が小さくうなずいたのを見て、結衣はそっと停止ボタンを押した。

 教室の中に静けさが戻る。

 真帆は顔を片手でおおって、「うわ、恥ず」と小さく言った。
 でもその声は、昨日よりずっとやわらかかった。

「……今の、よかった」

 結衣が言うと、真帆は指のすき間からこちらを見た。

「ほんと?」
「うん」
「めっちゃつっかえてたけど」
「でも……ちゃんとしてた」

 自分でも、少し変な言い方だと思った。
 うまく説明できる自信はなかった。
 それでも結衣には、今の真帆の声が“ちゃんとしていた”としか言いようがなかった。整っているとか、上手だとか、そういうことではなく、ちゃんと真帆の気持ちがそこにいた。

 真帆は手を下ろして、少しだけ笑う。

「朝倉さん、今日なんか違うね」
「え」
「急かさない感じ。やりやすかった」

 その言葉に、結衣は少しだけ目を見開いた。

 自分では、ただ黙っていただけのつもりだった。
 けれど、黙ることと、待つことは同じじゃないのかもしれない。

 前は、自分が何を言えばいいかわからなくて黙っていた。
 今日は、相手の言葉が出てくるまで、そのままでいた。

 その違いを、真帆はちゃんと感じ取っていた。

「……そっか」
「うん。なんか、話していいんだって思えた」

 真帆はそう言って、机の上のマイクをつついた。

 結衣はその一言を胸の中でくり返す。
 話していいんだと思えた。

 それは、誰かの代わりにうまく言うこととはたぶん違う。
 相手の気持ちを先回りして整理してしまうことでもない。
 ただ、その人がその人の言葉を出せるまで、急がせずにそこにいること。

 それもまた、誰かの声を受け取るということなのかもしれなかった。

 相手の代わりに言うんじゃなく、言えるまで待つことも、ちゃんと誰かの力になれるのかもしれない。

 その日初めて結衣は、沈黙を埋めるためじゃなく、誰かの声が出てくるのを待つために黙れた。