翌朝、真帆はいつも通りクラスの真ん中で笑っていた。
窓際の席にいる子へ何かを投げて、前の列の男子に「それ絶対違うでしょ」と声を立てる。教室の朝のざわめきの中で、真帆の声はよく通る。明るくて、軽くて、まわりの空気を少しやわらかくする声だ。
その姿を見ただけで、結衣は少しだけ足を止めた。
昨日のことを、真帆はもう気にしていないかもしれない。
あるいは、気にしていたとしても、今さら話しかけたところで何が変わるのかはわからない。むしろ、変に蒸し返すみたいでおかしいかもしれない。
そう思うのに、席へ向かう足はなかなか動かなかった。
逃げたら、また同じだ。
その考えだけが、かろうじて結衣の背中を押した。
兄の声がふと浮かぶ。
それじゃだめなんだよな。
昨日、録音の中で兄が言っていた言葉だ。
あれは兄が自分へ向けて言ったわけじゃない。たまたま残っていた会話の一部にすぎない。けれど今の結衣には、それが妙に近いところで響いた。
言わないままにしておく。
困る前に誰かが空気を変えてくれるのを待つ。
そうやって、いつも同じ場所に戻ってしまう。
真帆の席の前まで行って、結衣は立ち止まった。
呼びかける声がすぐには出ない。
喉がひどく乾いている気がした。
たった一言なのに、胸の奥で何かがつかえている。
その間に、真帆のほうが先に気づいた。
「あ、朝倉さん。おはよ――」
その言葉に重なるみたいに、結衣は言った。
「昨日、ごめん」
思っていたより小さな声だった。
でも、自分から出した声だった。
真帆が一瞬だけ目を丸くする。
その表情を見た途端、結衣は遅れて緊張する。やっぱり変だったかもしれない。今さらすぎたかもしれない。そんな後悔が喉まで上がってきたところで、真帆はすぐにふっと笑った。
「ん。大丈夫」
たったそれだけだった。
結衣はその一言で、肩から少しだけ力が抜けるのを感じた。
もっと何か言われるかもしれないと思っていた。どうして急に、とか、別に怒ってないよ、とか。そういうやり取りを覚悟していたのに、真帆は必要以上に大きくしなかった。
「なんか、私も言い方へただったし」
「……ううん」
「いや、ほんとに。ちょっと疲れてて、雑になってたかも」
真帆はそう言いながら、机の上の筆箱を指先でくるりと回す。
軽い調子なのに、受け流しているわけではないことがわかる。ちゃんと受け取って、そのうえで重くしすぎないようにしてくれている。
結衣は唇を少しだけ湿らせた。
「私、あんまり……」
「うん」
「うまく言えなくて」
そこまで言って、また言葉が止まる。
もっと説明したい気持ちはある。兄のことも、母のことも、自分が何にひっかかっているのかも、本当は少しは話したい。でも、まだそこまでは出てこない。
真帆はうなずいた。
「それは知ってる」
「……」
「でも、今日ちゃんと来てくれたから、前よりわかった気する」
その言い方が、結衣には思った以上にやさしかった。
来てくれた。
それだけで、少しわかった気がする。
中身を全部説明できなくても、自分から向かったこと自体が何かを伝えるのだと、結衣はそのとき初めて少しだけ思った。
「また今日も録るし」
「……うん」
「よろしくね」
真帆はいつもの調子でそう言って笑った。
必要以上に感動したふうにも、距離を置いたふうにもならない。その軽さがありがたかった。
結衣も少し遅れて、ほんのわずかに笑った。
「よろしく」
口にしてみると、その言葉は思ったよりちゃんと自分の中に残った。
うまく言えたわけじゃない。
昨日のことが全部解決したわけでもない。
それでも、逃げずに席の前まで行って、自分から声を出した。
たったそれだけのことが、結衣には今までよりずっと大きかった。
自分の席へ戻る途中、教室のざわめきは朝と同じまま続いていた。
窓の外の光も、誰かの笑い声も、何も劇的には変わっていない。
でも結衣の中では、ほんの少しだけ景色が違って見えた。
うまく言えなくても、自分から向かった言葉は、前よりちゃんと体の内側に残るのだと知ったからだった。
窓際の席にいる子へ何かを投げて、前の列の男子に「それ絶対違うでしょ」と声を立てる。教室の朝のざわめきの中で、真帆の声はよく通る。明るくて、軽くて、まわりの空気を少しやわらかくする声だ。
その姿を見ただけで、結衣は少しだけ足を止めた。
昨日のことを、真帆はもう気にしていないかもしれない。
あるいは、気にしていたとしても、今さら話しかけたところで何が変わるのかはわからない。むしろ、変に蒸し返すみたいでおかしいかもしれない。
そう思うのに、席へ向かう足はなかなか動かなかった。
逃げたら、また同じだ。
その考えだけが、かろうじて結衣の背中を押した。
兄の声がふと浮かぶ。
それじゃだめなんだよな。
昨日、録音の中で兄が言っていた言葉だ。
あれは兄が自分へ向けて言ったわけじゃない。たまたま残っていた会話の一部にすぎない。けれど今の結衣には、それが妙に近いところで響いた。
言わないままにしておく。
困る前に誰かが空気を変えてくれるのを待つ。
そうやって、いつも同じ場所に戻ってしまう。
真帆の席の前まで行って、結衣は立ち止まった。
呼びかける声がすぐには出ない。
喉がひどく乾いている気がした。
たった一言なのに、胸の奥で何かがつかえている。
その間に、真帆のほうが先に気づいた。
「あ、朝倉さん。おはよ――」
その言葉に重なるみたいに、結衣は言った。
「昨日、ごめん」
思っていたより小さな声だった。
でも、自分から出した声だった。
真帆が一瞬だけ目を丸くする。
その表情を見た途端、結衣は遅れて緊張する。やっぱり変だったかもしれない。今さらすぎたかもしれない。そんな後悔が喉まで上がってきたところで、真帆はすぐにふっと笑った。
「ん。大丈夫」
たったそれだけだった。
結衣はその一言で、肩から少しだけ力が抜けるのを感じた。
もっと何か言われるかもしれないと思っていた。どうして急に、とか、別に怒ってないよ、とか。そういうやり取りを覚悟していたのに、真帆は必要以上に大きくしなかった。
「なんか、私も言い方へただったし」
「……ううん」
「いや、ほんとに。ちょっと疲れてて、雑になってたかも」
真帆はそう言いながら、机の上の筆箱を指先でくるりと回す。
軽い調子なのに、受け流しているわけではないことがわかる。ちゃんと受け取って、そのうえで重くしすぎないようにしてくれている。
結衣は唇を少しだけ湿らせた。
「私、あんまり……」
「うん」
「うまく言えなくて」
そこまで言って、また言葉が止まる。
もっと説明したい気持ちはある。兄のことも、母のことも、自分が何にひっかかっているのかも、本当は少しは話したい。でも、まだそこまでは出てこない。
真帆はうなずいた。
「それは知ってる」
「……」
「でも、今日ちゃんと来てくれたから、前よりわかった気する」
その言い方が、結衣には思った以上にやさしかった。
来てくれた。
それだけで、少しわかった気がする。
中身を全部説明できなくても、自分から向かったこと自体が何かを伝えるのだと、結衣はそのとき初めて少しだけ思った。
「また今日も録るし」
「……うん」
「よろしくね」
真帆はいつもの調子でそう言って笑った。
必要以上に感動したふうにも、距離を置いたふうにもならない。その軽さがありがたかった。
結衣も少し遅れて、ほんのわずかに笑った。
「よろしく」
口にしてみると、その言葉は思ったよりちゃんと自分の中に残った。
うまく言えたわけじゃない。
昨日のことが全部解決したわけでもない。
それでも、逃げずに席の前まで行って、自分から声を出した。
たったそれだけのことが、結衣には今までよりずっと大きかった。
自分の席へ戻る途中、教室のざわめきは朝と同じまま続いていた。
窓の外の光も、誰かの笑い声も、何も劇的には変わっていない。
でも結衣の中では、ほんの少しだけ景色が違って見えた。
うまく言えなくても、自分から向かった言葉は、前よりちゃんと体の内側に残るのだと知ったからだった。
