きみの録音ボタンが消えるまで

 その夜、結衣はいつもより少し長く、レコーダーの画面を見たまま動けなかった。

 再生すれば兄の声が聞こえる。
 それはもうわかっている。何度も聞いてきたし、どの音声がどんな空気を連れてくるのかも、少しずつ覚え始めていた。

 でも同時に、兄の声が今の自分を助けきれないことも、もうどこかで知ってしまっていた。

 真帆に言われたこと。
 母に拒まれたこと。
 先生の前で、自分が待てなかったこと。

 どれも兄の声に逃げ込めば少しは遠くなるのに、消えてはくれない。レコーダーの中の兄は、やさしくても、今の会話の続きを代わりにしてはくれない。

 それでも結衣は、結局またイヤホンを耳に差し込んだ。

 再生ボタンを押す。

 最初は風の音だった。
 ざらついた外の空気。誰かが歩きながら回してしまったみたいな、安定しないノイズ。そのあと、兄の声とは別に、低く返事をする知らない声が少しだけ入る。

 誰かと一緒にいるらしい。

「いや、結衣ってさ」

 その名前が出た瞬間、結衣の指先がぴくりと動いた。

 自分の名前が兄の口から出るとき、体のほうが先に反応してしまうのは、もうどうしようもなかった。

 兄は少し笑っている。
 でも、いつもの軽い笑い方より少しだけ照れたような、誰かに本音をぽろっとこぼしたときの笑い方だった。

「すぐ黙るんだよな」
「困るとほんと、顔に出るくせに言わないし」

 音声の向こうで、相手が何か短く返す。
 はっきりは聞き取れない。
 でも兄は、その返事にまた少しだけ笑って続けた。

「でもあれ、結局、俺が先に言っちゃってるだけかも」
「なんか、困る前に動いちゃうし」

 結衣はそこで、呼吸を忘れたみたいにじっとした。

 今の言葉が、すぐにはうまく意味にならない。
 兄は笑っていた。責めているわけでも、深刻ぶっているわけでもない。ただ、自分でも少し困ったみたいに認めている声だった。

 俺が先に言っちゃってるだけかも。

 その一言が、遅れて胸の奥へ沈んでいく。

 兄は知っていたのだ。
 結衣が黙りやすいことを。
 困ると固まることを。
 何も言わないまま笑ってごまかすことを。

 そして、その原因の一つが、自分の“先回り”にもあるかもしれないと、ちゃんとわかっていたのだ。

 結衣はベッドの端に座り直し、膝の上にレコーダーを置いた。

 兄は、ただ守ってくれていただけじゃなかった。

 もちろん、守ってくれていたのは本当だ。
 結衣が言えないことを代わりに言ってくれた。空気が悪くなる前に変えてくれた。自分が傷つきそうな場面から、うまく外してくれた。

 けれど、そのやさしさがいつも正しいのか、兄自身も少し迷っていたのだ。

 結衣は初めて、そのことに胸を打たれた。

 兄は、なんでもわかっている人ではなかった。
 兄は、ただ正しいことだけをしていた人でもなかった。
 結衣を守ろうとして、その守り方に少し戸惑っていた。
 そのうえで、やっぱり放っておけなくて先に動いてしまう人だった。

 その不器用さが、結衣にはひどく近く感じられた。

 音声の向こうで兄がまた言う。

「まあでも、あいつが何も言わないほうが楽なら、それでもいいのかと思ってたけど」
「……いや、たぶん、それじゃだめなんだよな」

 最後のほうは少し声が小さくなって、風の音にまざりかける。
 それでも結衣には、そこだけ妙にはっきり聞こえた。

 それじゃだめなんだよな。

 兄は気づいていた。
 結衣が黙ること。
 自分が先に動いてしまうこと。
 そのままでは、たぶん結衣はずっと言えないままだということに。

 それでも兄は、結衣が困る前に手を出してしまっていた。
 やさしさと迷いが、同じ場所にある声だった。

 音声はそこで少し雑になり、相手の笑う気配と足音が混じる。
 会話は別の話題へ流れていくらしく、兄の声も遠くなる。結衣はそこで停止ボタンを押した。

 部屋に静けさが戻る。

 結衣はすぐには顔を上げられなかった。
 兄の言葉が、そのまま自分の中に残っていたからだ。

 兄は、自分を守るだけの存在ではなかった。
 守りながら、ちゃんと迷っていた。
 結衣の言葉を奪ってしまうかもしれないと、少しずつ気づいていた。

 それが苦しかった。
 でも同時に、少しだけ救いでもあった。

 兄は完璧な人じゃなかった。
 だからこそ、そのやさしさは思い出の中のきれいなものじゃなく、ちゃんと生きていた人のやさしさとして結衣の胸に残る。

 結衣はレコーダーを両手で包む。

 やさしさの中に迷いがあったとわかった瞬間、兄は思い出よりずっと近い人になった。