きみの録音ボタンが消えるまで

 その日は、家に帰ってから一度もリビングに長くいられなかった。

 母が「ごはんできてるよ」と言った気がする。
 結衣も何か返したはずなのに、それが「うん」だったのか「あとで」だったのか、自分でもよく覚えていない。

 制服のまま部屋へ戻り、鞄を床に置いたまま椅子に座る。
 机の上には朝のまま開きっぱなしのノートがあり、その横に置いたレコーダーだけが、やけにくっきり見えた。

 真帆の言葉が、まだ胸の奥に残っている。

 自分のことは置いたまま。

 そんなつもりじゃなかった。
 迷惑をかけたくなくて、困らせたくなくて、重たくなりたくなくて、ただ黙っていただけだと思っていた。
 でも、そんなつもりじゃないだけで消える痛みではないと、もうわかってしまった。

 結衣は引き出しも開けず、そのままレコーダーに手を伸ばした。

 考えるより先に、イヤホンを耳に差し込む。
 録音を選ぶ指は、迷いなく動いた。

 再生。

 ざあ、と小さく風の音。
 靴音。
 兄の笑い声。
 それから、何度も聞いた言い直しの声。

「……この前のこと、なんだけど」
「いや、違うな」
「ちゃんと話したいんだけど」

 兄の声は今日も変わらない。
 同じ間で止まり、同じ息づかいで迷い、同じところで途切れる。

 結衣は目を閉じる。

 いつもなら、この声を聞くだけで少し楽になれた。
 兄の声がまだどこかに残っていること、それだけで一日分のしんどさが少しだけ遠くなる気がした。

 でも今日は違った。

 真帆に何を返せばよかったのか。
 先生が言いかけたものを、どうして待てなかったのか。
 母に、もう一度何を言えばいいのか。

 そういう“今ここ”の問いだけが、兄の声のすき間から何度も浮かんでくる。

 兄の音声は、どれだけ再生しても昔のままだ。
 同じところで笑い、同じところで止まり、同じところで切れる。

 結衣はそれを知っていたはずなのに、今夜初めて、その変わらなさが少し苦しかった。

 もう一度、壊れた音声を再生する。

「結衣は――」

 そこでノイズが入る。
 何度聞いても、その先は戻ってこない。

 結衣はレコーダーを握ったまま、唇を噛んだ。

 この続きを聞けたら、全部わかる気がしていた。
 兄が何を言いたかったのか。
 自分はどうすればいいのか。
 少なくとも、今よりは少しましに動ける気がしていた。

 でも本当にそうだろうか、と、胸のどこかで小さく疑う声がした。

 もし続きを聞けたとしても。
 兄が「大丈夫」と言っていたとしても。
 それで真帆への返事が勝手に見つかるわけじゃない。
 母との会話が急にうまくいくわけでもない。
 先生のあの一瞬の間を、もう一度やり直せるわけでもない。

 兄の声は残っている。
 でも、会話にはならない。

 それが、遅れて胸に落ちてくる。

 結衣はイヤホンを片方だけ外した。
 部屋の静けさが、急に戻ってくる。遠くで食器の触れる音がして、母がまだ台所にいるのだとわかる。

 生きている人の音だ。
 今この家で鳴っている音だ。

 それなのに結衣は、そこへ向かわず、またイヤホンを戻してしまう。

 まだ無理だと思った。
 兄の声がもう答えにならないかもしれないと気づき始めていても、すぐに手放せるほど結衣は強くない。

 レコーダーの中の音は過去のものだ。
 過去だから安全で、過去だから変わらない。
 そして変わらないからこそ、今の結衣を最後までは助けてくれない。

 それでも結衣は、もう一度だけ再生した。

 兄の声は、やっぱり同じところで止まる。
 何度聞いても、そこから先へは進まない。

 声は残っているのに。
 こんなに近くにあるのに。
 今ほしい返事だけが、どこにもない。

 結衣はようやくイヤホンを外し、膝の上に置いた。
 部屋が静かになる。静かになったぶんだけ、自分の呼吸の浅さがわかった。

 逃げ込む先があると思っていた。
 兄の声の中へ入ってしまえば、少しは何とかなると思っていた。

 でもそこはもう、前へ進むための場所ではないのかもしれなかった。

 そう思っても、結衣はレコーダーをしまえなかった。
 まだ、ここから離れるわけにはいかない気がしたからだ。

 過去の音は何度でも再生できる。
 けれど、今の返事だけはどこにもない。

 そのことだけが、ひどく静かに結衣を追いつめていた。