翌朝、結衣は黒板の文字を見ていたはずなのに、気づくと何も頭に入っていなかった。
先生がチョークで数式を書いている。
前の席の子がノートをめくる。
窓の外では、風に揺れた枝がガラスをかすめる。
教室はいつも通り動いているのに、結衣の意識だけが何度も別の場所へ引っ張られた。
結衣は――
たった四文字。
それだけなのに、胸の奥にひっかかったまま離れない。
兄の声で、自分の名前が呼ばれる。
その先に、まだ聞けていない言葉がある。
結衣はノートに日付を書いて、その下に先生の板書を写し始めた。
二行ほど書いたところで、ペン先が止まる。
もしあの続きが、
結衣はちゃんとできる、だったら。
結衣は大丈夫、だったら。
結衣はもう少し――
そこまで考えて、自分で小さく首を振る。
勝手に続きを作っても意味がない。
まだちゃんと聞けたわけじゃないのだから。
そう思うのに、頭の中では何度でも“その先”が形を変えて現れる。
「朝倉」
不意に名前を呼ばれて、結衣ははっと顔を上げた。
「次、ここ」
「あ……はい」
先生が指した黒板の一角には、いつの間にか新しい式が増えていた。教室の何人かがこちらを見て、すぐまた自分のノートに戻る。結衣はあわてて視線を落とし、空いていた行に数字を書き足した。
でも手は、思ったより遅かった。
昼休みまでの数時間が、いつもより長く感じる。
いや、本当は長いわけではなくて、結衣の中だけが妙に細かく刻まれているのかもしれなかった。何かの拍子に時計を見るたび、まだこんな時間だと思う。そのたびにポケットの中のスマホの存在を意識する。
律から、続きの連絡は来ていないだろうか。
もう少し復元できたと言われたらどうしよう。
あるいは、やっぱりここまでしか無理だったと言われたら。
そのどちらも怖いのに、確認せずにはいられない。
休み時間、机の中から教科書を出すふりをしてスマホをのぞく。通知はない。
それだけで、少しだけ肩が落ちる自分がいる。
結衣はスマホをしまいながら、ふとノートの端に目を向けた。
さっき書いていた板書の脇に、小さく走り書きがある。
結衣は
いつ自分で書いたのか、一瞬わからなかった。
結衣はあわてて消しゴムを取る。白いかすがノートの上に散って、指先にまとわりついた。消しながら、胸の奥がひどく落ち着かなくなる。
ここまで来ると、さすがにおかしい。
わかっている。
たった壊れかけた音声の続きを、こんなふうに一日中考えているのは変だ。しかも、そこに自分の今の答えまで入っているような気になっている。
でも、ほかに何を頼ればいいのかもわからなかった。
母には聞いてもらえなかった。
真帆には、自分のことを置いたままだと言われた。
自分でも、どうしたいのかはっきり言えない。
だから、兄が残した“かもしれない”言葉だけが、今はひどく確かなものに見えてしまう。
あの続きさえ聞けたら。
兄が自分に何を言おうとしたのかさえわかれば。
少なくとも、今よりは少しましに動ける気がする。
それが思い込みだとしても、結衣の中ではもう、簡単にははがれなかった。
五時間目の終わりに、窓の外から吹き込んだ風がプリントを一枚めくった。
結衣は反射的にそれを押さえながら、胸の内側でまた同じ言葉をなぞる。
結衣は――
まだ聞けてもいない言葉に、結衣はもう自分の明日を預けかけていた。
先生がチョークで数式を書いている。
前の席の子がノートをめくる。
窓の外では、風に揺れた枝がガラスをかすめる。
教室はいつも通り動いているのに、結衣の意識だけが何度も別の場所へ引っ張られた。
結衣は――
たった四文字。
それだけなのに、胸の奥にひっかかったまま離れない。
兄の声で、自分の名前が呼ばれる。
その先に、まだ聞けていない言葉がある。
結衣はノートに日付を書いて、その下に先生の板書を写し始めた。
二行ほど書いたところで、ペン先が止まる。
もしあの続きが、
結衣はちゃんとできる、だったら。
結衣は大丈夫、だったら。
結衣はもう少し――
そこまで考えて、自分で小さく首を振る。
勝手に続きを作っても意味がない。
まだちゃんと聞けたわけじゃないのだから。
そう思うのに、頭の中では何度でも“その先”が形を変えて現れる。
「朝倉」
不意に名前を呼ばれて、結衣ははっと顔を上げた。
「次、ここ」
「あ……はい」
先生が指した黒板の一角には、いつの間にか新しい式が増えていた。教室の何人かがこちらを見て、すぐまた自分のノートに戻る。結衣はあわてて視線を落とし、空いていた行に数字を書き足した。
でも手は、思ったより遅かった。
昼休みまでの数時間が、いつもより長く感じる。
いや、本当は長いわけではなくて、結衣の中だけが妙に細かく刻まれているのかもしれなかった。何かの拍子に時計を見るたび、まだこんな時間だと思う。そのたびにポケットの中のスマホの存在を意識する。
律から、続きの連絡は来ていないだろうか。
もう少し復元できたと言われたらどうしよう。
あるいは、やっぱりここまでしか無理だったと言われたら。
そのどちらも怖いのに、確認せずにはいられない。
休み時間、机の中から教科書を出すふりをしてスマホをのぞく。通知はない。
それだけで、少しだけ肩が落ちる自分がいる。
結衣はスマホをしまいながら、ふとノートの端に目を向けた。
さっき書いていた板書の脇に、小さく走り書きがある。
結衣は
いつ自分で書いたのか、一瞬わからなかった。
結衣はあわてて消しゴムを取る。白いかすがノートの上に散って、指先にまとわりついた。消しながら、胸の奥がひどく落ち着かなくなる。
ここまで来ると、さすがにおかしい。
わかっている。
たった壊れかけた音声の続きを、こんなふうに一日中考えているのは変だ。しかも、そこに自分の今の答えまで入っているような気になっている。
でも、ほかに何を頼ればいいのかもわからなかった。
母には聞いてもらえなかった。
真帆には、自分のことを置いたままだと言われた。
自分でも、どうしたいのかはっきり言えない。
だから、兄が残した“かもしれない”言葉だけが、今はひどく確かなものに見えてしまう。
あの続きさえ聞けたら。
兄が自分に何を言おうとしたのかさえわかれば。
少なくとも、今よりは少しましに動ける気がする。
それが思い込みだとしても、結衣の中ではもう、簡単にははがれなかった。
五時間目の終わりに、窓の外から吹き込んだ風がプリントを一枚めくった。
結衣は反射的にそれを押さえながら、胸の内側でまた同じ言葉をなぞる。
結衣は――
まだ聞けてもいない言葉に、結衣はもう自分の明日を預けかけていた。
