きみの録音ボタンが消えるまで

 教室に入った瞬間、まだ鞄も机に置いていないのに声が飛んできた。

「朝倉さん、これ職員室に出すやつなんだけど、ついでにお願いしていい?」
「あ、あと黒板の日付、まだだから書いといてくれる?」
「プリント来てるよ。配るの手伝ってもらってもいい?」

 どれも小さな頼みごとだった。

 重たい荷物を持たされるわけでも、露骨に押しつけられるわけでもない。誰も悪気はなくて、むしろ「朝倉さんなら大丈夫」と信じているみたいな顔をしている。だから結衣は、断るための言葉より先に、いつもの返事を口にしてしまう。

「うん、いいよ」
「大丈夫」
「やっとくね」

 自分の声が、薄くて軽いものみたいに聞こえた。

 本当は、ぜんぶを引き受けたいわけじゃない。教室に入って席に着くまでの数分くらい、ただ何も言われずに一息つきたい日だってある。今日は特にそうだった。けれど「今は無理」とか「あとでなら」とか、そういう小さなことすらうまく言えない。

 結衣はプリントの束を抱えて列のあいだを歩く。紙の端が指に当たって少し痛い。黒板に日付を書き、提出物のかごを運び、ようやく席に着いたころには、朝の始まり方をもう一度やり直したい気分になっていた。

 ホームルームのチャイムが鳴る。

 担任は出席簿を閉じると、教卓の上のプリントを持ち上げた。

「今月末の校内放送企画の件だけど、昨日も言った通り、各クラスで協力係を二人決めます。テーマは『ありがとうを声で届けよう』。クラスや先生、家族に向けたメッセージを集めて、昼休みの放送で流すからな」

 教室の空気が、わかりやすく少しだけ引いた。

 前の席の男子が、筆箱をいじるふりをして目を伏せる。隣の女子は友達と目を合わせて、笑ってごまかす。やりたくないのだと、言葉にしなくてもわかる。

「じゃあ、誰かやってくれる人」

 担任がそう言っても、すぐには手が挙がらなかった。

 結衣はその沈黙の中で、なるべく目立たないように息をひそめる。こういうとき、自分の名前が出ませんようにと思う気持ちと、もし出たら断れないだろうなという諦めが、いつも同時に胸の中へ来る。

「朝倉さん、こういうの丁寧だし向いてそう」

 前の列から、何気ない声がした。

 悪意のない言い方だった。褒めているつもりなのだろうということもわかる。だから余計に、結衣は「嫌です」と言えなかった。

 担任がすぐに顔を上げる。

「お、朝倉いいか?」
「……」

 一瞬だけ間が空く。

 その一瞬で「無理です」と言えたらよかった。苦手なんです、と笑って言えたらよかった。けれど結衣の喉は、そういうときだけきれいに閉じてしまう。

「……はい」

 出たのは、やっぱりその返事だった。

「じゃあ朝倉な。あと一人――」

「はいはい、じゃあ私やるよ」

 明るい声で手を挙げたのは真帆だった。

 教室の空気が少しゆるむ。担任も「助かる」と笑って名簿に丸をつけた。

 真帆は振り向いて、結衣のほうへ気楽そうに笑う。

「二人ならなんとかなるっしょ」
「……うん」

 結衣も笑い返そうとして、少しだけ遅れた。

 助かった、と思った。真帆が一緒なら少しはましだとも思った。でもその気持ちを、そのまま言葉にすることはできなかった。

 また一つ、言えなかったことだけが静かに増える。

 結衣は机の上に置いた両手をそっと重ねた。断る代わりに笑うのは、もう癖みたいなものだった。