きみの録音ボタンが消えるまで

 部屋へ戻ろうとして廊下に出たとき、結衣はすぐには歩き出せなかった。

 台所の白い光が背中のほうから細く伸びてきて、廊下の床にぼんやり形をつくっている。その境目に立ったまま、結衣はレコーダーを胸の前で握りしめた。

 母に拒まれた。

 その事実だけが、まだうまく胸の中に収まらない。
 聞いてもくれないなんて思わなかった。驚くかもしれない、泣くかもしれないとは思っていた。でも、最初から「やめて」と言われるとは思っていなかった。

 自分が何か間違ったことをしたみたいな気持ちと、そんなふうに言われる筋合いはないという気持ちが、喉の奥でぐちゃぐちゃに混ざっている。

 兄の声なのに。
 お母さんにとっても、大事なはずなのに。

 そう思うと、胸の内側がじくじく熱くなった。

 そのとき、前を歩いていた母が、兄の部屋の前で足を止めた。

 結衣は思わず息をひそめる。

 ほんの一瞬のことだった。
 けれど、母の背中がそこに留まった時間は、結衣にはひどく長く見えた。

 母の右手が、ゆっくりと上がる。
 ドアノブに触れるのかと思った。指先があと少しで届くところまで来て、でも、そこで止まる。

 母は動かなかった。

 閉まったままのドア。
 兄のいない部屋。
 その前で、母だけが静かに立ち尽くしている。

 やがて、上がりかけた手は何もつかまないまま、またゆっくり下りた。母は振り返りもしないで、そのまま寝室のほうへ歩いていく。

 結衣は廊下の途中で立ち尽くしたままだった。

 さっきまで、母は兄のことを避けているのだと思っていた。
 忘れたいのだと。
 なかったことみたいにしたいのだと。

 でも今の背中は、そんなふうには見えなかった。

 避けているんじゃない。
 近づけないだけだ。

 そう思った瞬間もあった。けれどすぐに、そんなふうに母をかばうみたいな考えを持つのが悔しくなって、結衣は唇をかんだ。

 近づけないのは、こっちだって同じなのに。

 兄の部屋の前に立つたびに、空気が少し冷たくなる。
 ドアを開ければ、机も、本棚も、服も、何もかもがそのままなのに、そこにはどうしても兄だけがいない。結衣だって、兄の部屋へ入るときはいつも少し息を止める。

 それなのに母だけがつらいみたいな顔をするのは、ずるい気もした。

 でも、さっきの背中は、ずるさよりずっと弱く見えた。
 何かに負けた人の背中みたいだった。

 結衣はゆっくり兄の部屋のドアへ視線を向ける。
 閉じたままの扉は何も言わない。ただそこにあるだけなのに、その沈黙の中へ、母も結衣も同じように立ち止まっている気がした。

 閉じているのは部屋だけじゃない。
 たぶん母の時間も、同じ場所で止まったままだ。

 そう思うと、さっきまでの怒りが少しだけ形を失う。
 全部許せるわけではない。聞いてもらえなかったことは、まだちゃんと痛い。けれど母の拒絶は、冷たさだけではないのかもしれないと、結衣は初めてうっすら感じた。

 廊下の先で、寝室のドアが静かに閉まる音がした。

 結衣はレコーダーを抱え直す。
 それから兄の部屋の前を通り過ぎ、自分の部屋へ向かった。

 母は兄を忘れているんじゃなかった。
 ただ、近づけないだけなのかもしれなかった。