きみの録音ボタンが消えるまで

 その夜、夕食のあと片づけが終わるころには、家の中の音はずいぶん少なくなっていた。

 蛇口から落ちる水の音。
 皿を重ねる乾いた音。
 換気扇の回る低い音。

 それ以外は、ほとんど何も聞こえない。

 結衣は自分の部屋と台所を一度行き来して、それからまた廊下の途中で立ち止まった。手の中にはレコーダーがある。小さいのに、今夜は妙に重かった。

 前からずっと、母にも聞かせたほうがいいと思っていた。
 兄の声が残っていたことを、母が知らないままでいるのは変な気がした。
 きっと驚く。もしかしたら泣くかもしれない。
 でも、少なくとも聞いてはくれると思っていた。

 そう思っていたのに、呼びかける寸前になると、喉の奥がまた固くなる。

「お母さん」

 それでも、今日は声が出た。

 流し台の前に立っていた母が、手を止めて振り返る。
 布巾を持ったままの手が、少しだけ宙で止まった。

「……なに」

 いつも通りの声だ。
 怒っているわけでも、急かしているわけでもない。
 でも、その静かさがかえって結衣を緊張させた。

 結衣はレコーダーを両手で持ち直す。
 兄のものだと口に出した瞬間、何かが大きく変わる気がして、指先に力が入った。

「これ」

 そこまで言って、少しだけ息を吸う。

「お兄ちゃんの声、残ってたの」

 その瞬間、母の顔からふっと色が引いた。

 驚いた、というより先に、固まった。
 表情が強く動いたわけではないのに、空気の温度だけが一度に下がったように感じる。

「レコーダーに、入ってて」
「やめて」

 母の声は大きくなかった。

 なのに、結衣はその一言で、それ以上の言葉が喉の途中に引っかかった。怒鳴られたわけでもない。ただ低く、まっすぐ止められただけなのに、足元が一瞬ぐらつくような感じがした。

「でも、聞いて」
「その話は、しないで」

 母はレコーダーのほうを見なかった。
 結衣の顔も、手の中の機械も、見てしまったら何かが壊れるみたいに、視線を少しだけそらしたまま言う。

 結衣は立ち尽くす。

 どうして。
 せめて一度くらい聞いてくれてもいいのに。
 そう思うのに、その気持ちはまた言葉にならない。胸の内側だけが熱くなって、でも口のほうは冷たく固まってしまう。

「お母さん、これ――」
「お願い」

 今度の声は、さっきより少しだけ弱かった。

 弱いのに、結衣にはそれが余計につらかった。
 拒絶されている。
 受け取ってもらえない。
 その感じだけが、先に胸へ刺さる。

 母は布巾をシンクの端へ置くと、そのまま背を向けた。
 会話は、そこで終わりだった。

 結衣はレコーダーを胸の前に引き寄せる。
 まるで、自分が何か触ってはいけないものを持ち出したみたいだった。

 兄の声を見つけた夜より、この短いやりとりのほうがずっと息苦しい。
 聞いてくれないのだとわかった瞬間、レコーダーの中の声が急に“自分だけのもの”みたいに感じられてしまう。そのことが、また少しだけさみしかった。

 何も言えないまま、結衣は一歩下がる。
 台所の白い光だけが、母の背中と流し台の縁を冷たく照らしていた。

 差し出したはずの言葉は、母のところまで届く前に、床へ落ちたみたいだった。