イヤホンを外したあとも、兄の声はしばらく耳の奥に残っていた。
部屋は静かなままだ。机の上のノートも、開きっぱなしの教科書も、窓の外の街灯の明かりもさっきと何も変わっていない。なのに結衣の中だけ、何かの見え方が少しずつずれていく。
兄は、何でもできる人だった。
そう思ってきた。
少なくとも、結衣よりずっと自然に言葉を扱える人だと思っていた。
小学生のころ、班の発表で前に立つ役を決めるとき、結衣は最後まで手を挙げられなかったことがある。みんながなんとなく結衣のほうを見てきて、でも「できない」と言う勇気もなくて、ただうつむいていた。
そのとき兄は、職員室へ用事で来ていた帰りに教室をのぞいて、事情を聞くなりあっさり言った。
「結衣、人前だと固まるから、別の役のほうがいいと思います」
先生は少し驚いていたけれど、「そうか」とすぐにうなずいた。結衣は助かったと思った。恥ずかしかったし、情けない気持ちも少しあったけれど、それより何より、言わなくて済んだことにほっとしたのを覚えている。
また別の日、近所の子にからかわれて何も返せなかったときも、兄は先に口を開いた。
「それ、面白くないからやめなよ」
兄がそう言うと、相手は少し気まずそうに黙った。結衣は兄の後ろに立ったまま、ただ息をついていた。自分で言い返せなかったことへの悔しさより、兄がいてくれてよかったという安心のほうが強かった。
母とのあいだでも、兄はいつも自然に間へ入った。
夕食の空気が少し重くなると、テレビの話をしたり、学校のくだらない出来事を持ち出したりして、会話を別の方向へ流してしまう。結衣はその横で箸を動かしながら、兄がいると助かる、と思っていた。
思い返せば、そういう場面はいくつもある。
兄はよく気づく人だった。
結衣が困る前に動いてくれた。
結衣が言えないことを、代わりに言ってくれた。
だから結衣は、兄を“できる人”として記憶していたのだ。
でも録音の中の兄は、そういう人ではなかった。
いや、そういう人では“ある”のだけれど、それだけではなかった。
兄は最初から上手にできたわけじゃない。
何でも自然に言えたわけじゃない。
録音の前で一人で立ち止まって、
何度も言い直して、
ちゃんと話そうとしていた。
そのことが、結衣には思った以上に大きかった。
お兄ちゃんだって、困ってたんだ。
その気づきは、兄を小さくするものではなかった。むしろ逆だった。
迷わない人より、迷いながら言おうとする人のほうが、今の結衣にはずっと近くて、ずっと強く感じられた。
兄はずっと前から、結衣の前では“できる人”でいようとしていたのかもしれない。
困っていないように見せて、迷っていないように見せて、それでもちゃんと誰かに言葉を届けようとしていたのかもしれない。
そう思うと、胸の奥に別の痛みがにじんだ。
結衣は、兄に助けられたことばかり覚えていた。
兄がその前にどれだけ迷っていたか、考えたこともなかった。
兄が代わりに言ってくれる。
兄が先に動いてくれる。
兄が空気を変えてくれる。
そのたびに結衣は助かった。
でも今思うと、その安心の横で、自分はずっと何も言わないままでいたのかもしれなかった。
兄が言ってくれるから、自分は黙ったままで済んでいた。
その事実が、遅れてじわじわと胸にしみてくる。
もちろん、兄を責めたいわけではない。
あのころの結衣には、たぶん本当に必要な助けだった。兄がいなければ、もっと苦しい思いをした場面はいくつもあったはずだ。
でも、兄が先に言ってくれる形に慣れていくうちに、結衣は自分で言う順番を少しずつ置いてきてしまったのかもしれない。
言葉は、黙っていれば誰かが代わりに何とかしてくれる。
そんなふうに考えていたわけではない。
けれど結果として、結衣の中ではそういう癖が育っていたのかもしれなかった。
布団の端を指先でつまみながら、結衣は天井を見上げる。
兄は、頼れる人だった。
でもそれは、最初からそうだったんじゃない。
録音の中で迷って、困って、それでも言おうとしていたから、結衣の前ではあんなふうに立てていたのかもしれない。
記憶の中の兄は、少しずつ形を変えていく。
助けてくれる人。
頼れる人。
なんでもできる人。
それは間違いじゃない。
でも、それだけじゃ足りない。
兄もまた、結衣と同じように、言葉の前で立ち止まる人だった。
そのうえで、立ち止まったままにしない人だった。
その違いが、結衣には今ひどくまぶしく思えた。
助けられていた記憶は、今になって少しだけ別の形に見え始める。
兄はずっと前に、結衣の代わりに言ってくれていた。
だから結衣は、自分で言う練習をどこかへ置いたまま、ここまで来てしまったのかもしれなかった。
部屋は静かなままだ。机の上のノートも、開きっぱなしの教科書も、窓の外の街灯の明かりもさっきと何も変わっていない。なのに結衣の中だけ、何かの見え方が少しずつずれていく。
兄は、何でもできる人だった。
そう思ってきた。
少なくとも、結衣よりずっと自然に言葉を扱える人だと思っていた。
小学生のころ、班の発表で前に立つ役を決めるとき、結衣は最後まで手を挙げられなかったことがある。みんながなんとなく結衣のほうを見てきて、でも「できない」と言う勇気もなくて、ただうつむいていた。
そのとき兄は、職員室へ用事で来ていた帰りに教室をのぞいて、事情を聞くなりあっさり言った。
「結衣、人前だと固まるから、別の役のほうがいいと思います」
先生は少し驚いていたけれど、「そうか」とすぐにうなずいた。結衣は助かったと思った。恥ずかしかったし、情けない気持ちも少しあったけれど、それより何より、言わなくて済んだことにほっとしたのを覚えている。
また別の日、近所の子にからかわれて何も返せなかったときも、兄は先に口を開いた。
「それ、面白くないからやめなよ」
兄がそう言うと、相手は少し気まずそうに黙った。結衣は兄の後ろに立ったまま、ただ息をついていた。自分で言い返せなかったことへの悔しさより、兄がいてくれてよかったという安心のほうが強かった。
母とのあいだでも、兄はいつも自然に間へ入った。
夕食の空気が少し重くなると、テレビの話をしたり、学校のくだらない出来事を持ち出したりして、会話を別の方向へ流してしまう。結衣はその横で箸を動かしながら、兄がいると助かる、と思っていた。
思い返せば、そういう場面はいくつもある。
兄はよく気づく人だった。
結衣が困る前に動いてくれた。
結衣が言えないことを、代わりに言ってくれた。
だから結衣は、兄を“できる人”として記憶していたのだ。
でも録音の中の兄は、そういう人ではなかった。
いや、そういう人では“ある”のだけれど、それだけではなかった。
兄は最初から上手にできたわけじゃない。
何でも自然に言えたわけじゃない。
録音の前で一人で立ち止まって、
何度も言い直して、
ちゃんと話そうとしていた。
そのことが、結衣には思った以上に大きかった。
お兄ちゃんだって、困ってたんだ。
その気づきは、兄を小さくするものではなかった。むしろ逆だった。
迷わない人より、迷いながら言おうとする人のほうが、今の結衣にはずっと近くて、ずっと強く感じられた。
兄はずっと前から、結衣の前では“できる人”でいようとしていたのかもしれない。
困っていないように見せて、迷っていないように見せて、それでもちゃんと誰かに言葉を届けようとしていたのかもしれない。
そう思うと、胸の奥に別の痛みがにじんだ。
結衣は、兄に助けられたことばかり覚えていた。
兄がその前にどれだけ迷っていたか、考えたこともなかった。
兄が代わりに言ってくれる。
兄が先に動いてくれる。
兄が空気を変えてくれる。
そのたびに結衣は助かった。
でも今思うと、その安心の横で、自分はずっと何も言わないままでいたのかもしれなかった。
兄が言ってくれるから、自分は黙ったままで済んでいた。
その事実が、遅れてじわじわと胸にしみてくる。
もちろん、兄を責めたいわけではない。
あのころの結衣には、たぶん本当に必要な助けだった。兄がいなければ、もっと苦しい思いをした場面はいくつもあったはずだ。
でも、兄が先に言ってくれる形に慣れていくうちに、結衣は自分で言う順番を少しずつ置いてきてしまったのかもしれない。
言葉は、黙っていれば誰かが代わりに何とかしてくれる。
そんなふうに考えていたわけではない。
けれど結果として、結衣の中ではそういう癖が育っていたのかもしれなかった。
布団の端を指先でつまみながら、結衣は天井を見上げる。
兄は、頼れる人だった。
でもそれは、最初からそうだったんじゃない。
録音の中で迷って、困って、それでも言おうとしていたから、結衣の前ではあんなふうに立てていたのかもしれない。
記憶の中の兄は、少しずつ形を変えていく。
助けてくれる人。
頼れる人。
なんでもできる人。
それは間違いじゃない。
でも、それだけじゃ足りない。
兄もまた、結衣と同じように、言葉の前で立ち止まる人だった。
そのうえで、立ち止まったままにしない人だった。
その違いが、結衣には今ひどくまぶしく思えた。
助けられていた記憶は、今になって少しだけ別の形に見え始める。
兄はずっと前に、結衣の代わりに言ってくれていた。
だから結衣は、自分で言う練習をどこかへ置いたまま、ここまで来てしまったのかもしれなかった。
