きみの録音ボタンが消えるまで

 その日の録音をひと通り終えたころには、外の光が少しだけ薄くなっていた。

 真帆は「先にプリント出してくるね」と言って準備室を出ていき、部屋の中には機材を片づける小さな音だけが残る。コードをまとめる音。椅子を引く音。パソコンの画面が切り替わるかすかな電子音。

 結衣は机の端に立ったまま、鞄の中に手を入れた。

 兄のレコーダーを持ってきていたことを、さっきから何度も意識していた。見てもらうなら今かもしれないと思う一方で、やっぱりやめたほうがいいのではないかという気持ちもあった。これは学校へ持ってくるようなものじゃない。兄の声が入った、あまりに個人的なものだ。

 でも同時に、壊れたファイルのことは頭から離れなかった。

「……あの」

 声をかけると、律が手を止めて顔を上げた。

 結衣はそこで一度、言葉をなくしかける。
 ただ“見てほしい”だけのはずなのに、その一言が妙に出しにくい。

「これ、ちょっと……見てもらってもいい?」

 鞄の奥からレコーダーを取り出して差し出すと、律は余計なことを聞かずに受け取った。
 それだけで少し助かる。

「兄の、なんだけど」
「うん」
「ファイルが……一個だけ変で」

 律はレコーダーを軽く傾け、液晶を確かめる。指先の動きは静かで、慣れている感じがした。結衣はその手元を見つめながら、自分の呼吸が少し浅くなっていることに気づく。

 ボタンが何度か押される。
 画面の表示が切り替わる。
 そして律が小さく「あ」と言った。

「これか」
「……うん」
「文字コード崩れてる」

 結衣は思わず身を乗り出す。

 液晶の小さな画面には、ほかのファイル名とは明らかに違う並びが映っていた。読めない記号みたいな文字列。ところどころ欠けていて、何の名前だったのかもわからない。

 でも再生時間はゼロではない。
 短いながら、ちゃんと何かが残っている形をしていた。

「直る?」

 結衣はほとんど反射で聞いていた。

 律はすぐには答えない。レコーダーを操作しながら、少しだけ画面を見つめて、それから言う。

「中身が残ってれば、拾えるかも」
「残ってなかったら?」
「そのときは無理」

 言い方が、やさしいわけでも冷たいわけでもなかった。ただ事実だけを机の上に置くみたいな声だった。

 結衣は画面を見つめたまま、喉の奥が少しずつ乾いていくのを感じた。

 中身が残っていれば。

 その言葉だけで、胸の内側に小さな火がついたみたいだった。

 あの「結衣」と呼んで途切れた音声の続きかもしれない。
 母へ言いかけた謝罪の先かもしれない。
 あるいは、本当に何でもない雑音かもしれない。

 そう思おうとしても、結衣の気持ちはもう別のほうへ傾き始めていた。

 これかもしれない。

 兄が自分に何か言おうとしていた、その続きを残しているのは。
 自分がまだ聞けていない言葉があるとしたら、その入口はたぶんここだ。

「声……入ってるかな」

 小さく聞くと、律は液晶から目を離さないまま答えた。

「可能性はある」

 可能性。

 その曖昧な言葉に、結衣は逆にすがりたくなった。

 はっきり“ある”と言われたわけでもないのに、もう心の中では、そこに何か大事なものが入っている気がしてしまう。入っていてほしい、ではなく、入っているはずだ、とどこかで決めかけている自分がいた。

「少し時間かかるかもだけど」
「……お願い」

 自分でも驚くくらい早く、声が出た。

 律がそこでようやく結衣のほうを見る。
 その視線は短かったけれど、何か言いたげにも見えた。けれど結局、律はそれを口にしなかった。

「期待しすぎないほうがいいよ」

 代わりにそう言って、レコーダーを返してくる。

「……うん」

 結衣はうなずいた。
 うなずいたけれど、その時点でもうわかっていた。

 期待しないなんて、無理だ。

 レコーダーを受け取ると、手のひらの中でほんの少し熱を持っている気がした。機械が熱いわけじゃない。たぶん自分の手の熱だ。

 もしそこに、兄が自分へ残した言葉が入っていたら。
 もしその続きを聞けたら。

 母に何て言えばいいのか。
 自分は本当はどうしたいのか。
 そういうことが、少しだけはっきりする気がしてしまう。

 まだ何も聞けていないのに。
 まだ、ただ壊れたファイル名を見ただけなのに。

 それでも結衣には、その読めない文字列が“まだ言われていない言葉”みたいに見えた。

 答えがそこにあると決まったわけでもないのに、結衣はもう、その壊れた音声にすがり始めていた。