きみの録音ボタンが消えるまで

 休憩といっても、ほんの五分かそこらだった。

 何人か続けて録音したあとで、真帆が「飲み物買ってくるけど、朝倉さんも行く?」と聞いた。結衣は少しだけ迷ってから、小さくうなずく。

 準備室を出ると、廊下の空気は思ったよりひんやりしていた。窓の外はまだ明るいのに、校舎の中だけ少し早く夕方に近づいているみたいだった。

 自販機の前まで歩くあいだ、真帆は特に無理に話しかけてこなかった。結衣には、その沈黙が少しありがたかった。気まずいほど重くなくて、でも何も考えなくていいくらい軽くもない、ちょうどいい静けさだった。

「何飲む?」

 真帆が自販機の前で振り返る。

「……お茶」
「了解」

 ボタンを押す音がして、結衣の缶が落ちてくる。真帆は自分のスポーツドリンクを取り出しながら、「こういうとき、なんとなく甘いの飲みたくなるんだよね」と笑った。

 結衣は小さく笑って、それから缶を両手で持つ。冷たさが手のひらにしみた。

「朝倉さんってさ」

 不意に真帆が言って、結衣は顔を上げた。

「ちゃんと聞いてくれるよね」
「……そうかな」
「そうだよ。急かさないし、変にかぶせてこないし」

 真帆はあっさりそう言った。
 褒められているのかどうか、結衣にはすぐわからなかった。

 自分では、ちゃんと聞けているなんて思っていない。ただ何を言えばいいかわからなくて、黙っているだけだ。相手が話しているあいだに気の利いた返事を探して、でも見つからなくて、そのまま時間が過ぎることのほうが多い。

「……黙ってるだけかも」
「それ、できない人もいるよ」

 真帆は缶のふたを開けながら言う。

「待てない人って、すぐ自分の話にしちゃうし」
「……」
「だから、朝倉さんのそれ、私はけっこう助かる」

 結衣は返事ができなかった。
 助かる、なんて言われると思っていなかったからだ。

 廊下の窓から入る風が、制服の袖を少し揺らす。結衣は視線を落として、缶の表面についた水滴を親指でなぞった。

「朝倉さん、自分の分も録るの?」

 真帆の声は軽かった。
 深く聞き出そうとしている感じではなく、本当に何気なく思いついて口にしただけみたいな声だった。

 それなのに、結衣の喉はすぐに固くなる。

 自分の分。
 誰に向けて。
 何を。

 考えた途端、兄のレコーダーのことが頭に浮かぶ。
 自分の声を録ること自体は、もう毎日のようにしている。けれどそれは、誰にも向けていない声だ。少なくとも、生きている誰かには。

「……まだ、考えてない」

 やっとそれだけ言うと、真帆は「そっか」とうなずいた。

 それ以上は聞かなかった。

 なんで、とも、誰に録るのか、とも、聞いてこない。気になるならいくらでも聞けたはずなのに、真帆は缶を一口飲んでから、「まあ私も偉そうに言えないしなあ」と笑っただけだった。

「私も、自分の分はたぶんギリギリまで逃げる気がする」
「……そうなんだ」
「うん。人のはまだいいんだけどね。自分のになると急に重い」

 真帆はそう言って肩をすくめる。
 その言い方が、妙に気取っていなくてよかった。

 結衣は少しだけ肩の力を抜く。

 無理に言わせようとしない。
 踏み込みすぎない。
 でも、気にしていないわけでもない。

 その距離感が、結衣には新しかった。

 今まで誰かに優しくされるときは、たいてい兄が間に入ってくれていた。兄のほうが勝手に空気を読んで、結衣が困る前に会話を軽くしてくれた。結衣はその後ろで、小さく笑っていればよかった。

 でも真帆は違う。
 助けてくれるけれど、代わりに全部言ってしまうわけではない。結衣の沈黙を埋めすぎず、そのまま置いておける人だった。

「そろそろ戻ろっか」

 真帆が空になりかけたペットボトルをくるりと回す。
 結衣は「うん」と答えて、自分の缶を持ち直した。

 廊下を戻るあいだ、二人はまたしばらく黙っていた。
 でもその沈黙は、教室で一人で黙っているときのものとは少し違った。

 踏み込みすぎない優しさは、思っていたよりずっとありがたかった。
 言わせようとしない人の前のほうが、不思議と少しだけ話しやすいのかもしれないと、結衣はそのとき初めて思った。