きみの録音ボタンが消えるまで

 二人目の録音が終わったころには、結衣の肩は思ったより早くこわばっていた。

 録音機そのものは軽い。
 マイクだって、手のひらに収まる程度の大きさしかない。
 それなのに、誰かの前へ向けるたびに、その小さな機械が少しずつ重くなる気がした。

「次、誰いく?」

 真帆がプリントを見ながら顔を上げる。
 廊下の向こうでは部活へ向かう足音がして、準備室の外だけがいつも通りににぎやかだった。

 次に来たのは、クラスの女子二人組だった。
 一人は最初から「やだやだ、絶対むり」と笑っていて、もう一人はその横で「でも録らないと終わんないじゃん」と肩を押している。

「え、ほんとに流れるの?」
「流れるよー。名前とか嫌なら入れなくていいし」
「いや、そういう問題じゃなくて」

 真帆が明るく返すあいだ、結衣は録音機を持って立っていた。
 前より少しだけ、“どうぞ”のタイミングを待てるようになっている気もする。けれど、まだ自分から空気を作れる感じではない。

「じゃ、やるだけやってみる」

 女子はそう言ってマイクの前に立った。
 ついさっきまで笑っていたのに、赤いランプがついた瞬間、その顔つきが少しだけ変わる。

「えっと……お母さん、いつも……」

 そこまで言って、ぴたりと止まった。

 結衣は思わず瞬きをする。
 冗談っぽく始めるのかと思っていたのに、その子の声は思ったよりずっと本気だった。

「待って、無理」

 女子は次の瞬間に吹き出して、自分で自分の額を押さえる。

「これ、なんで録ると急に恥ずかしくなるの」
「わかる、赤いランプに見られてる感じあるよね」

 真帆が笑うと、相手の女子も少しだけ気が楽になったみたいに息をついた。

 結衣は停止ボタンを押す。
 押しながら、胸の奥で小さく何かがほどけるのを感じた。

 みんな、ちゃんと言える人だと思っていた。

 教室で笑っている子。
 授業中にすぐ発言できる子。
 冗談も本音も軽く口にできそうな子。

 そういう子たちは、こういうときも迷わず言葉を出せるのだと思っていた。

 でも違う。

 三人目の男子は、録音が始まる前までずっと「先生にありがとうとかキツいわ」と笑っていたのに、いざマイクを向けると急に視線を落とした。

「えっと……あのとき、助かりました」

 最初の一言だけで、もうさっきまでの軽さは消えていた。
 最後まで録り切ったあと、男子は耳の後ろをかきながら「やべ、思ったよりちゃんと喋っちゃった」と照れくさそうに笑った。

 また別の子は、友達へのありがとうを録ろうとして、名前を言う寸前で何度も止まった。

「いや、名前入れるのは無理」
「そこが本題じゃないの?」
「本題だけど、そこが一番無理」

 そのやりとりに真帆が声を立てて笑い、準備室の空気が少しやわらぐ。
 結衣もつられてほんの少しだけ笑った。

 何人か続けて録っていくうちに、結衣はだんだん気づいていく。

 みんな、同じなのだ。

 同じ、というのは性格が似ているとか、悩みが同じだとか、そういう意味ではない。
 言葉が口のところまで来て、一度だけ止まる。その感覚を、たぶん誰もが持っている。

 ありがとう。
 短くて、やさしいはずの言葉。
 小さいころから何度も使ってきたはずの言葉。

 それなのに、本当に誰かひとりへ向けて言おうとすると、急に重くなる。

 結衣は録音ボタンを押しながら、少しだけ息を吐いた。

 言えないのは、自分だけじゃなかった。

 それだけのことが、思った以上に胸の中でやわらかく広がる。
 救われた、というほど大きなものじゃない。
 でも、教室の中で自分だけが変なのだと思っていた場所に、小さな隙間ができたような感じがした。

 五人目の録音が終わったあと、真帆が伸びをする。

「いやー、みんな平気そうな顔してるくせに、めっちゃ詰まるじゃん」
「……うん」
「でも、なんかちょっといいよね」

 真帆がそう言って笑う。
 結衣はその意味をすぐには言葉にできなかったけれど、うなずきたくなった。

 たぶん、うまく言えないところまで含めて、その人の声だからだ。

 さっき録った女子の、吹き出す直前のためらい。
 男子が急に視線を落としたときの間。
 友達の名前を言えずに何度も言い直す息づかい。

 どれも少し不格好だった。
 でも、その不格好さのほうが、結衣にはやけにやさしく見えた。

 みんな平気そうに見えるだけで、言葉の前ではちゃんと立ち止まるのだと知った。
 そしてそのことは、結衣を少しだけ楽にした。