きみの録音ボタンが消えるまで

 朝の食卓は、静かすぎるときほど細かい音ばかりが大きくなる。

 味噌汁をすする音。箸先が茶碗に当たるかすかな音。母がコップを置く、小さな音。テレビでは朝の情報番組がいつも通り明るい声を流しているのに、この家の中だけ少し違う時間が流れているみたいだった。

「ごはん、冷めるよ」

 母はそう言って、自分の皿に視線を落とした。

 結衣は「うん」とだけ返して席に着く。椅子を引く音が、思ったより大きく響いた。

 兄がいたころの朝は、もっと狭かった気がする。食卓の広さは変わっていないはずなのに、今は二人分しか並んでいない皿のあいだに、まだ一人分の沈黙が残っている。

 焼き魚を箸でほぐしながら、結衣は何度目かのためらいを喉の奥で飲み込んだ。

 本当は今日、放課後に残りたくない。

 昨日、担任から渡されたプリントには、校内放送企画の係会議と書いてあった。みんなが目をそらしているうちに、流れみたいに名前が決まって、結衣はいつものように「はい」と言ってしまった。本当はそういうのは苦手だ。人前で話すのも、知らない子の前で声をかけるのも、得意じゃない。

 今からでも母に言えばいい。今日は少し疲れてるとか、やっぱり向いてない気がするとか。たったそれだけのことなのに、口を開こうとすると、言葉はすぐに形をなくしてしまう。

 母の顔色が変わるのが怖い、というより、今のこの静けさを壊すのが怖かった。

「……学校、何時まで?」

 不意に母が聞いてきて、結衣は少しだけ顔を上げた。

 それだけのことが、少しうれしいと思ってしまった自分に、胸の奥が小さく痛む。

「ちょっと、係あるかも」
「そう」

 会話はそこで終わった。

 終わるつもりじゃなかったのに、終わってしまった。

 結衣は味噌汁の椀に視線を落とす。湯気が細く立ちのぼって、すぐに消えていく。本当は「やりたくない」と言いたかった。「ちょっと嫌だ」とも、「うまくできる気がしない」とも言いたかった。けれど、どれも声になる前にしぼんでいく。

 母もまた、何か言いたそうに見えることがある。でも結局、口に出されないまま朝は進んでいく。

 テレビの中で、晴れのちくもりの予報が流れる。キャスターが笑って、今日の洗濯日和について話している。そんな明るさが、この家の食卓には少しだけ遠い。

「遅れるよ」

 母がもう一度言った。

「うん」

 結衣はうなずいて、ごはんを口に運ぶ。

 味はちゃんとするのに、何を食べているのか、途中からあまりわからなくなる。言いたかったことだけが喉のあたりに残って、飲み込んでも消えてくれなかった。

 この家では、言葉より先に、飲み込むほうが上手になっていく。