六年二組の教室。朝のホームルームが始まる前、ミオは窓際の席で外を見ていた。
運動場の端に、金木犀が一本ある。まだ咲いていないけれど、もうすぐだろうとミオは思った。祖父の家にも同じ木があって、毎年秋になると甘いにおいがした。
「ねえ、三列目の子」
朝の時間の声がした。
「三列目の子?」
「そう。ほら、窓から二番目。ちょっと下向いてる子」
ミオはそっとそちらを見た。
同じクラスの女の子だった。名前は確か、河村さん。まだちゃんと話したことはない。今、机の上に教科書を広げているけれど、目が赤い。
「今朝、泣いてたよ」
「……なんで知ってるの」
「朝のことはだいたい知ってる。朝だから」
ミオは河村さんを見た。うつむいていて、表情はよく分からない。でも確かに、いつもと様子が違った。
「声かけた方がいい?」
「どうするかはミオが決めること。ただ、教えたかっただけ」
チャイムが鳴る。
その日の昼休み、ミオは迷った。
声をかけるのは苦手だ。六年生になってから、どうもうまくいかない。仲の良いお友達とはクラスが分かれて、新しいお友達を二学期になってもまだ作れていない。
河村さんは、教室の隅で一人でお弁当を食べていた。
「眠いな〜」
昼の時間が来た。
「今、大事なこと考えてるんだけど」
「そうなの〜。何?」
「河村さんに声かけようか迷ってる」
「あー。なんで迷ってるの〜」
「うまく話せなかったら、って思って」
「うまく話せなかったら?」
「……嫌な顔されるかも」
「されるかも、ね〜」
昼の時間はそれ以上は言わなかった。ただぼんやりとそばにいた。
ミオはお弁当箱のふたを閉めて、立ち上がった。
「あの」
河村さんが顔を上げた。
「隣、いい?」
一瞬、間があった。ミオの心臓が跳ねた。
「……うん」
河村さんは小声で言った。
ミオは隣に座った。何を話すか決めていなかった。でも座ってしまった。
「お弁当、何入ってる?」
河村さんが聞いた。
「卵焼きと、ちくわ」
「いいな。わたし卵焼き好き」
「……河村さんは、甘い方としょっぱい方、どっちが好き?」
「甘い方」
「わたしも甘い方が好き」
「そうなんだ」
河村さんはまだ目が赤かったけれど、少しだけ表情がほぐれた気がした。
それから数日で、ミオと河村さんはよく話すようになった。
大きな友達、というほどではない。でも廊下で会えば話すし、昼休みに隣に座ることもある。
河村さんがあの朝何で泣いていたのかは、ミオは聞かなかった。聞かなくていい、と思った。ただ隣にいれば、それでよかった。
誰がどんな話をするのが好きか。誰が静かに見えて実はよく笑うか。誰が一人でいたくて、誰が誰かと話したくて一人でいるか。
朝の時間が、ときどき教えてくれた。
「あの子、今日誕生日らしいよ」
「後ろの席の子、プリントなくして困ってるよ」
大きなことは何もない。でも小さなことが少しずつ重なって、ミオは教室の中に居場所を見つけ始めていた。
十月の最初の週、学校に着いたとき、においがした。
校門をくぐった瞬間に気づいた。甘くて、少し重くて、でも嫌じゃないにおい。どこから来るのか探したら、運動場の端にある木だった。
金木犀が、咲いていた。
小さなオレンジ色の花が、枝に密集している。目立たない花だけれど、においだけは遠くまで届く。秋が来たのだと、ミオは思った。時間は、ちゃんと進んでいる。
「知ってた?」
「何を?」
朝の時間が聞いた。
「金木犀って、二日か三日で散るんだって。咲いたと思ったら、もうすぐ終わる」
「知ってる! でも毎年ちゃんと来るから、短くてもいいんだよ!」
「そういうもんかな」
「そういうもんだよ! 短いから、覚えてるんじゃない?」
ミオは立ち止まって、木を見た。
祖父の家にも、同じ木があった。毎年秋になると、家中に甘いにおいが漂った。祖父は縁側でお茶を飲みながら、「今年も来たな」と言っていた。毎年同じことを言っていた。
おじいちゃんも、このにおいを覚えていたんだろうか。
「おじいちゃんの家の金木犀、今年も咲いてるかな」
「咲いてるよ。昨日、確認した。誰も見てないけど、ちゃんと咲いてる」
「見てきてくれたの?」
「朝だから、知ってる。今朝の明石で咲いてるもの、だいたい分かる」
ミオはそれを聞いて、少し胸があたたかくなった。
チャイムが鳴った。ミオは走って教室に向かった。金木犀のにおいが、しばらくついてきた。
そのとき、誰かが小さくつぶやいた気がした。
「時間は残酷だよ」
ミオは振り向く。
でも誰もいない。
その夜、
「……今日、何か聞こえたでしょ?」
夜の時間からこんな質問をされた。
「うん」
「それは、ぼくたちとは違う時間かもしれない」
☆
蒼井トキと初めて話したのは、十月に入って二週目頃だった。
理科準備室の前で、ミオはうっかり段ボール箱にぶつかった。中身は理科の実験道具で、盛大な音を立てて廊下に散らばった。
「すみません、大丈夫ですか?」
すぐに声がして、男の子が拾い始めた。同じクラスの蒼井くんだと気づいたのは少し後だった。
「ごめん、わたしがぶつかったから」
「いや、僕が端に置きすぎてた」
二人で黙々と片付けた。最後の一つ、割れていないか確認しながらトキが言った。
「ミオさんって、時計に詳しい?」
唐突な問いだった。
「……全然」
「そっか。でも昨日、時計屋の前でずっと立ってたから」
そういえば、昨日の帰り道。商店街の端にある小さな時計屋の前で、飾ってあった古い置き時計を眺めていた。祖父の柱時計と少し似た雰囲気があったから、つい足が止まったのだ。
「おじいちゃんが時計職人だったから」
「へえ」
トキは目を細めた。
「うちのお祖父ちゃんに弟子入りしてた人がいたって、父さんから聞いたことある。もしかして、その人?」
「え、」
「名前、田中さんじゃない?」
ミオは固まった。祖父の苗字は田中だ。
「……知ってるの?」
「直接は知らないけど。父さんがよく話してた。この町で一番腕のいい時計職人だったって」
その日の夕方、ミオは夜の時間に話した。
「同じクラスに、蒼井くんって子がいるんだけど」
「知ってるよ」
「おじいちゃんのことを知ってた」
「この町は狭いから。時計のことになると、特にね」
「蒼井くんも時計が好きみたい。将来、時計職人になりたいって言ってた」
「そうか」
「なんか、不思議な感じ。おじいちゃんがいなくなった後に、おじいちゃんを知ってる人と出会うって」
「時間はそういうものだよ。人と人をつなぐのも、時間の仕事のうちだから」
「時間の仕事って他にも何かあるの?」
「たくさんある。でも一番大事なのは、流れること」
「流れること」
「そう。止まらないで、ちゃんと動き続けること。それだけで、たくさんのことが起きるから」
ミオは窓の外を見た。
夜の明石は静かだ。遠くに海があって、街の灯りが水に映っている。
「ねえ、おじいちゃんって時計職人としてどうだったの」
「腕が良かった。でもそれよりも、時計が好きだった。好きな気持ちが、腕に出てた」
「どういうこと?」
「修理した時計が、ちゃんと動くだけじゃなくて、気持ちよさそうに動く、って言ったらわかる? あの人が手を入れた時計は、みんなそうだった」
ミオはしばらく黙っていた。
「蒼井くんも、そういう時計職人になれるかな」
「さあ。それはまだ分からない。でも好きな気持ちは本物みたいだよ。昼間、時計屋の前で三十分立ってたから」
「見てたの」
「昼の時間が言ってた。眠そうに」
ミオは笑った。
翌朝、教室でトキと目が合った。
トキは少し照れたみたいに頭を下げた。ミオも頷いた。それだけだったけれど、昨日までとは違う感じがした。
「仲良くなれそう?」
朝の時間が聞いた。
「どうかな」
「なれると思うけどな。あの子、時計の話になると早口になるから、聞いてあげたら喜ぶよ」
「早口になるの?」
「すごく。昨日も時計屋のおじさんと話してて、ものすごい速さで喋ってた」
それは少し、見てみたいと思った。
十月の半ば、体育の授業は運動場でやった。
種目は持久走だった。ミオは走ることが得意ではない。速くもなく、かといって極端に遅くもない。ただ、長く走るのが苦手だった。
スタートして、最初の一周は何とかなった。二周目から、呼吸が荒くなってきた。
「ミオちゃん、フォームが崩れてる! 肩に力が入ってる!」
「今それどころじゃない」
「肩の力を抜いて! 腕を前に振るんじゃなくて、後ろに引く感じで!」
「うるさい、走れない」
「走りながら聞いて! 朝は得意分野なんだよ、これ!」
ミオは半分やけになって、肩の力を抜いた。腕の動きを変えた。
少し、楽になった。
「……なった」
「でしょ!」
「なんで知ってるの、走り方なんて」
「朝は体を動かす時間だから。この世界の生き物が走ったり飛んだりするの、毎日見てる。鳥の羽ばたきも、犬の走り方も、ぜんぶ朝に見てる。人間の走り方くらい分かる!」
ミオは少し笑いそうになった。笑うと呼吸が乱れるので、こらえた。
三周目に入ったとき、前を走っていた河村さんが少し失速した。ミオは横に並んだ。
「大丈夫?」
「足が重くて」
「肩の力抜いて、腕を後ろに引く感じにすると少し楽になる」
「え?」
「やってみて」
河村さんが試した。
少しして、「ちょっと楽かも」と言った。
「教えてあげてる! えらい!」
「うるさい、集中させて」
「え、何?」
ミオの隣で河村さんが驚いた。
「ごめん、独り言」
二人で並んで、最後まで走った。ゴールして、二人で芝生に倒れた。
「ありがとう、さっきの。どこで覚えたの? そんなこと」
「……ちょっと教えてもらって」
「誰に?」
「秘密」
河村さんは不思議そうな顔をしたが、「ふうん」と言って空を見た。
運動場の端に、金木犀の木が見えた。においはもう、ほとんどしなかった。花が散り始めていた。
運動場の端に、金木犀が一本ある。まだ咲いていないけれど、もうすぐだろうとミオは思った。祖父の家にも同じ木があって、毎年秋になると甘いにおいがした。
「ねえ、三列目の子」
朝の時間の声がした。
「三列目の子?」
「そう。ほら、窓から二番目。ちょっと下向いてる子」
ミオはそっとそちらを見た。
同じクラスの女の子だった。名前は確か、河村さん。まだちゃんと話したことはない。今、机の上に教科書を広げているけれど、目が赤い。
「今朝、泣いてたよ」
「……なんで知ってるの」
「朝のことはだいたい知ってる。朝だから」
ミオは河村さんを見た。うつむいていて、表情はよく分からない。でも確かに、いつもと様子が違った。
「声かけた方がいい?」
「どうするかはミオが決めること。ただ、教えたかっただけ」
チャイムが鳴る。
その日の昼休み、ミオは迷った。
声をかけるのは苦手だ。六年生になってから、どうもうまくいかない。仲の良いお友達とはクラスが分かれて、新しいお友達を二学期になってもまだ作れていない。
河村さんは、教室の隅で一人でお弁当を食べていた。
「眠いな〜」
昼の時間が来た。
「今、大事なこと考えてるんだけど」
「そうなの〜。何?」
「河村さんに声かけようか迷ってる」
「あー。なんで迷ってるの〜」
「うまく話せなかったら、って思って」
「うまく話せなかったら?」
「……嫌な顔されるかも」
「されるかも、ね〜」
昼の時間はそれ以上は言わなかった。ただぼんやりとそばにいた。
ミオはお弁当箱のふたを閉めて、立ち上がった。
「あの」
河村さんが顔を上げた。
「隣、いい?」
一瞬、間があった。ミオの心臓が跳ねた。
「……うん」
河村さんは小声で言った。
ミオは隣に座った。何を話すか決めていなかった。でも座ってしまった。
「お弁当、何入ってる?」
河村さんが聞いた。
「卵焼きと、ちくわ」
「いいな。わたし卵焼き好き」
「……河村さんは、甘い方としょっぱい方、どっちが好き?」
「甘い方」
「わたしも甘い方が好き」
「そうなんだ」
河村さんはまだ目が赤かったけれど、少しだけ表情がほぐれた気がした。
それから数日で、ミオと河村さんはよく話すようになった。
大きな友達、というほどではない。でも廊下で会えば話すし、昼休みに隣に座ることもある。
河村さんがあの朝何で泣いていたのかは、ミオは聞かなかった。聞かなくていい、と思った。ただ隣にいれば、それでよかった。
誰がどんな話をするのが好きか。誰が静かに見えて実はよく笑うか。誰が一人でいたくて、誰が誰かと話したくて一人でいるか。
朝の時間が、ときどき教えてくれた。
「あの子、今日誕生日らしいよ」
「後ろの席の子、プリントなくして困ってるよ」
大きなことは何もない。でも小さなことが少しずつ重なって、ミオは教室の中に居場所を見つけ始めていた。
十月の最初の週、学校に着いたとき、においがした。
校門をくぐった瞬間に気づいた。甘くて、少し重くて、でも嫌じゃないにおい。どこから来るのか探したら、運動場の端にある木だった。
金木犀が、咲いていた。
小さなオレンジ色の花が、枝に密集している。目立たない花だけれど、においだけは遠くまで届く。秋が来たのだと、ミオは思った。時間は、ちゃんと進んでいる。
「知ってた?」
「何を?」
朝の時間が聞いた。
「金木犀って、二日か三日で散るんだって。咲いたと思ったら、もうすぐ終わる」
「知ってる! でも毎年ちゃんと来るから、短くてもいいんだよ!」
「そういうもんかな」
「そういうもんだよ! 短いから、覚えてるんじゃない?」
ミオは立ち止まって、木を見た。
祖父の家にも、同じ木があった。毎年秋になると、家中に甘いにおいが漂った。祖父は縁側でお茶を飲みながら、「今年も来たな」と言っていた。毎年同じことを言っていた。
おじいちゃんも、このにおいを覚えていたんだろうか。
「おじいちゃんの家の金木犀、今年も咲いてるかな」
「咲いてるよ。昨日、確認した。誰も見てないけど、ちゃんと咲いてる」
「見てきてくれたの?」
「朝だから、知ってる。今朝の明石で咲いてるもの、だいたい分かる」
ミオはそれを聞いて、少し胸があたたかくなった。
チャイムが鳴った。ミオは走って教室に向かった。金木犀のにおいが、しばらくついてきた。
そのとき、誰かが小さくつぶやいた気がした。
「時間は残酷だよ」
ミオは振り向く。
でも誰もいない。
その夜、
「……今日、何か聞こえたでしょ?」
夜の時間からこんな質問をされた。
「うん」
「それは、ぼくたちとは違う時間かもしれない」
☆
蒼井トキと初めて話したのは、十月に入って二週目頃だった。
理科準備室の前で、ミオはうっかり段ボール箱にぶつかった。中身は理科の実験道具で、盛大な音を立てて廊下に散らばった。
「すみません、大丈夫ですか?」
すぐに声がして、男の子が拾い始めた。同じクラスの蒼井くんだと気づいたのは少し後だった。
「ごめん、わたしがぶつかったから」
「いや、僕が端に置きすぎてた」
二人で黙々と片付けた。最後の一つ、割れていないか確認しながらトキが言った。
「ミオさんって、時計に詳しい?」
唐突な問いだった。
「……全然」
「そっか。でも昨日、時計屋の前でずっと立ってたから」
そういえば、昨日の帰り道。商店街の端にある小さな時計屋の前で、飾ってあった古い置き時計を眺めていた。祖父の柱時計と少し似た雰囲気があったから、つい足が止まったのだ。
「おじいちゃんが時計職人だったから」
「へえ」
トキは目を細めた。
「うちのお祖父ちゃんに弟子入りしてた人がいたって、父さんから聞いたことある。もしかして、その人?」
「え、」
「名前、田中さんじゃない?」
ミオは固まった。祖父の苗字は田中だ。
「……知ってるの?」
「直接は知らないけど。父さんがよく話してた。この町で一番腕のいい時計職人だったって」
その日の夕方、ミオは夜の時間に話した。
「同じクラスに、蒼井くんって子がいるんだけど」
「知ってるよ」
「おじいちゃんのことを知ってた」
「この町は狭いから。時計のことになると、特にね」
「蒼井くんも時計が好きみたい。将来、時計職人になりたいって言ってた」
「そうか」
「なんか、不思議な感じ。おじいちゃんがいなくなった後に、おじいちゃんを知ってる人と出会うって」
「時間はそういうものだよ。人と人をつなぐのも、時間の仕事のうちだから」
「時間の仕事って他にも何かあるの?」
「たくさんある。でも一番大事なのは、流れること」
「流れること」
「そう。止まらないで、ちゃんと動き続けること。それだけで、たくさんのことが起きるから」
ミオは窓の外を見た。
夜の明石は静かだ。遠くに海があって、街の灯りが水に映っている。
「ねえ、おじいちゃんって時計職人としてどうだったの」
「腕が良かった。でもそれよりも、時計が好きだった。好きな気持ちが、腕に出てた」
「どういうこと?」
「修理した時計が、ちゃんと動くだけじゃなくて、気持ちよさそうに動く、って言ったらわかる? あの人が手を入れた時計は、みんなそうだった」
ミオはしばらく黙っていた。
「蒼井くんも、そういう時計職人になれるかな」
「さあ。それはまだ分からない。でも好きな気持ちは本物みたいだよ。昼間、時計屋の前で三十分立ってたから」
「見てたの」
「昼の時間が言ってた。眠そうに」
ミオは笑った。
翌朝、教室でトキと目が合った。
トキは少し照れたみたいに頭を下げた。ミオも頷いた。それだけだったけれど、昨日までとは違う感じがした。
「仲良くなれそう?」
朝の時間が聞いた。
「どうかな」
「なれると思うけどな。あの子、時計の話になると早口になるから、聞いてあげたら喜ぶよ」
「早口になるの?」
「すごく。昨日も時計屋のおじさんと話してて、ものすごい速さで喋ってた」
それは少し、見てみたいと思った。
十月の半ば、体育の授業は運動場でやった。
種目は持久走だった。ミオは走ることが得意ではない。速くもなく、かといって極端に遅くもない。ただ、長く走るのが苦手だった。
スタートして、最初の一周は何とかなった。二周目から、呼吸が荒くなってきた。
「ミオちゃん、フォームが崩れてる! 肩に力が入ってる!」
「今それどころじゃない」
「肩の力を抜いて! 腕を前に振るんじゃなくて、後ろに引く感じで!」
「うるさい、走れない」
「走りながら聞いて! 朝は得意分野なんだよ、これ!」
ミオは半分やけになって、肩の力を抜いた。腕の動きを変えた。
少し、楽になった。
「……なった」
「でしょ!」
「なんで知ってるの、走り方なんて」
「朝は体を動かす時間だから。この世界の生き物が走ったり飛んだりするの、毎日見てる。鳥の羽ばたきも、犬の走り方も、ぜんぶ朝に見てる。人間の走り方くらい分かる!」
ミオは少し笑いそうになった。笑うと呼吸が乱れるので、こらえた。
三周目に入ったとき、前を走っていた河村さんが少し失速した。ミオは横に並んだ。
「大丈夫?」
「足が重くて」
「肩の力抜いて、腕を後ろに引く感じにすると少し楽になる」
「え?」
「やってみて」
河村さんが試した。
少しして、「ちょっと楽かも」と言った。
「教えてあげてる! えらい!」
「うるさい、集中させて」
「え、何?」
ミオの隣で河村さんが驚いた。
「ごめん、独り言」
二人で並んで、最後まで走った。ゴールして、二人で芝生に倒れた。
「ありがとう、さっきの。どこで覚えたの? そんなこと」
「……ちょっと教えてもらって」
「誰に?」
「秘密」
河村さんは不思議そうな顔をしたが、「ふうん」と言って空を見た。
運動場の端に、金木犀の木が見えた。においはもう、ほとんどしなかった。花が散り始めていた。



