止まった柱時計と、時間の子―わたしは時間と話せる―

祖父の家には、時間のにおいがした。
線香でも、カビでもない。
この町の時間が積み重なったようなにおいだった。

ミオは玄関の引き戸を開けながら、一度だけ深呼吸した。
「……入ろ」

蝉の声は消えかけていて、代わりに虫の声がときどき混じる。
その中間みたいな九月の夕方に、ミオは段ボール箱を抱えて祖父の家に来ていた。

居間の隅に、柱時計が立っている。
天井近くまで届く背の高い時計。
木の色は深く、飴色のように光っている。
丸い文字盤には古いローマ数字。
金色の振り子。

祖父が入院した日から、ずっとこのままらしい。
この時計を巻くのは、いつも祖父だった。
薄暗い部屋でお茶を飲みながら、時計が鳴るたびに顔を上げる。
ゴーン、と低い音が響くと、「ほら、また時間が動いたな」と言って笑う。  幼い頃のミオには、その意味がわからなかった。

ミオはそっと時計に触れた。

そのときだった。

「やっと来たね」
 声がした。

 ミオは手を引こうとした。でも体が固まって、動かなかった。
 室内には自分しかいない。テレビも、ラジオも、ついていない。窓の外から虫の声は聞こえるけれど、今聞いた声は、外からではなかった。
 もっとずっと近くから——柱時計の中から、聞こえた。
「やっと話せる人が来た」
 低くも高くもない声。ただ、どこか遠くにあるものが、ゆっくりと近づいてくるような声だった。
「……誰?」
 おかしい。と思うより先に、口が動いていた。
「時間だよ」
 
 ミオは息をのんだ。
「……時間?」
「そう。時間。この時計に宿ってる時間。ずっとここにいたんだけど、話せる人が来なかったから、静かにしてた」
 
声は穏やかだった。
でも現実ではないみたいで、ミオは時計から手を離せないまま聞いていた。

「時間が……話す?」
「変だと思う?」
「……うん」
「そうだね。でも本当のことだよ。この時計はね、ただの時計じゃない」
 ゆったりとした口調だった。急いでいない。ずっとここで待っていたから、今さら焦らなくてもいい、という感じがした。

 ミオはその場に座り込み、膝を抱えて時計を見上げた。振り子はまだ止まっている。でも今は、止まっているのに何かが生きているみたいに見えた。
「なんで……わたしだけ聞こえるの」
「話せる人が決まってるんだ。この町で、この時計の声を聞けるのは、一人だけ。でも時間は何人もいる。君のおじいさんが最後の一人だった」
 祖父の名前が出てきた。
 ミオの胸の靄が、少し動いた気がした。
「おじいちゃんも……あなたと話してたの?」
「長い間ね。この時計を守ってくれてた人だよ。静かで、真面目で——でもたまに冗談を言う人だった」
 それは、知っている。
 ミオは少しだけ、笑いそうになった。
「じゃあ……おじいちゃんの次は、わたし?」
「そういうことだと思う。だから、よろしく」

 その夜、ミオは夕食をあまり食べられなかった。
「疲れたの?」
「うん、ちょっと」
 嘘ではなかった。本当に疲れていた。でも、何か奇妙なものが胸の中にあった。靄とは違う。もっと軽くて、透き通ったもの。
 ミオは自分の部屋で布団に入りながら、天井を見た。
 時間が話す。
 この町に、時計の声を聞ける人間が一人いる。
 その一人が、今は自分だ。
 おじいちゃんは、ずっとそれを知っていたんだ。
 「また時間が動いたな」
 あの言葉の意味が、少しだけ、わかった気がした。
 ミオは目を閉じた。
 窓の外で、虫が鳴いていた。

 この時計、もう一度動くのかな?
 おじいちゃんが守っていた時計。
 もし動くなら——わたしが動かす。