青井は、画材屋のカウンターに立っていた。大きな硝子張りの窓から午後の光が入り、店内のものたちはそれぞれの素材のまま、淡く照らされていた。
紙の棚は白い段階が何十と綺麗に並び、キャンバスは壁に寄りかかって静かに立っている。油絵具のチューブは箱ごとに規則正しく収まり、筆は毛先の形ごとに束ねられていた。それらはただそこにあるだけで、どこか厳粛な感じがした。触れようとしたら、ためらいを覚えるような静けさだった。
この店で働きはじめて三か月がたっていた。最初は、品出しやレジの操作など、やることひとつひとつに緊張していたが、今ではだいたいの流れが読めるようになった。
レジ横のベージュ色の箱に入った替え芯は、補充してもすぐに減っていくし、人気の水彩紙は雨の日に売れやすい。そういうことを、身体のほうが覚えていた。
「青井さん、新しく入った子に、油絵具の棚の説明お願いしてもいい?」
同僚の坂元が声をかけた。
坂元は青井より少し年上で、淡い色のセーターをよく着ている女性だった。
声がやわらかくて、相手を追い立てない。
「はい、大丈夫です」
青井は笑顔を作って、店の奥にいる新しいアルバイトの子を呼んだ。
「この棚が油絵具で、メーカーごとに分かれています。色番号はこのラベルのここにあって……」
話しながら、青井は後輩の視線がどこを見ているかを確かめた。説明がわかりやすいかどうか、理解のスピードに自分が合わせられているか。そういうことが、最近やっと少しできるようになってきた。それは自分が白洲に教わった姿勢とも、どこか似ていた。
午後の時間帯は客が少ないので、店内はまっすぐな静けさで満たされる。青井はレジ裏の作業台で、額縁に貼る値札シールを一枚ずつ印刷していた。シールを剥がすときの、指先にかかるわずかな抵抗。その感覚に、心が引っかかる時があった。
自分は前に進んでいるのだろうか、と青井は思った。昨日と今日がほとんど同じ形で続いてゆく。袋に入れる画用紙の枚数、筆の毛先を試す客の手つき、にじみ防止液の説明。そうした細かいことが、少しずつ積み重なっているだけだった。
「お疲れさま、休憩行ってきていいよ」
坂元が言った。
「ありがとうございます」
青井は裏の休憩スペースに入った。小さな折りたたみテーブルと、簡素な椅子が二脚だけある。壁は白くて、蛍光灯の光が均一に広がっていた。そこに座って水を飲むと、喉の奥が少しだけ冷たくなった。窓がなく、時間の流れが外から隔絶されているような場所だった。時計の針だけが動いている。青井はスマホを取り出し、画面を見た。特別な知らせはなく、画面はただ明るいだけで、意味はなかった。
白洲の店のことを思った。
あのカウンター、粉の匂い、サッカロマイセスの息づかいのような温度。あの場所は毎日同じで、循環しているのに、どこか季節の揺らぎのように、微妙に違いがあった。それに比べて、ここはどこまでも均一で澄んでいた。
坂元がレジから顔だけのぞかせて言った。
「青井さん、表に誰か来てるよ」
誰だろう、と青井は考えた。外に出ると、夕方の光がまだあたたかかった。店先の小さな屋根の影の中に、松山が立っていた。Tシャツに薄い綿のパンツ、足元はサンダル。まるで夏の空気と混ざり合って、そのままそこに立っているように見えた。
「松山さん」
「バイト中にごめん。これ、今日アトリエで配られたんだけど、青井さんいなかったから」
松山はビニール袋を少し持ち上げた。中には、小さな箱がいくつも入っている。海外のパッケージらしく、印刷が少し派手だった。
「君江さんが先週スイスに行って、買ってきたんだって」
「……チーズケーキ?」
青井は箱をひとつ取り出して、ラベルを見た。何語かわからない文字が並んでいた。白洲なら読めるかもしれない、と考えた。
「アトリエに冷蔵庫あるんだから、入れておいてくれればよかったのに」
青井は言った。
松山は、少し間を置いてから答えた。
「賞味期限近いから」
その言い方には、どこか言い訳のような、そのくせ隠しきれない理由が混じっていた。
「それになんだか会いたくなって、青井さんに」
風が吹き、松山のTシャツの裾が、わずかに揺れた。口説かれているのだろうか、と青井は思った。だけど、その声色はどこか岩田の話し方に似ていた。真っ直ぐで、余計なものがなく、ゆっくり届いてくる。だから裏を勘ぐるのは、少し違うような気がした。
「バイトのあと、時間ありますか」
そう松山が言った。
誘いでもあり、確認でもあり、手を差し出しているようでもあった。
青井は、自分の手の中のチーズケーキの箱を見つめる。少しだけ、指先が冷たい気がした。その冷たさは、迷いの形だった。岩田のことが、頭のどこかをよぎった。
松山は何も急かさなかった。
「……少しなら」
青井は言った。
松山の表情はほとんど変わらなかったが、目の奥がすこし柔らかくほどけた。
「じゃあ、店の近くで待ってます」
そう言って、松山は背を向けた。サンダルの音が、ゆっくりと舗道に消えていった。
鉄筋のアパートは、青井の住むぼろぼろの木造アパートに比べると、ずいぶんと頑丈に思えた。入口のオートロックは、指先で触れると軽く電子音を返した。まるでひとつひとつの扉が、生活を守ろうと目を光らせているような気がした。階段も廊下も、コンクリートの無機質な音がする。踏みしめるたび、その音が自分の気持ちをひとつずつ確認するように響いた。
松山の部屋には、余計なものがほとんどなかった。画材、スケッチブック、本がいくつか、充電器、テーブル、薄い布のソファ。必要なものしかない。生活に余白がある、というよりは、余白しかない部屋だった。
松山はすぐに寝息をたてはじめた。深く、安定したそれは、獣が巣に戻ったときと同じような気配を持っていた。青井は、目を閉じても眠れなかった。隣の松山の身体は大きくて、ひとつの塊のようにそこにある。熊が穴倉にいるみたいだ、と思った。同じベッドにいるのに、あまりに違う生き物が並んで横になっているようだった。
大きなベッドだったのに、それでも寝返りを打つ余裕がなかった。息をするたび、胸の奥が痛んだ。自分がどこにいるのか、どこに帰るべきなのか、はっきりしなくなった。
青井はそっと身体を起こした。シーツがかすかに擦れて音をたてる。何かの小さな装置のランプだけが、赤や緑にぼんやりと光っていた。その光だけが宇宙のように瞬いて、部屋の輪郭をかろうじて浮かび上がらせている。
青井は、ベッドに背を預けて座った。暗闇の中、呼吸を整えると、心が空洞のように感じられた。何か大事なものが欠けていることだけはわかるのに、それが何なのかはわからなかった。
——岩田と別れなければならない。
その言葉は、古い痛みのように胸の内側にゆっくり沈んでいった。
そして同時に、松山とも、と青井は思った。
このまま迷いの中にいて、寂しさを男に埋めてもらおうとする女にはなりたくなかった。慰めは波のように見えるだけで、触れたら消える。そのことを知っているのに、求めてしまいそうな自分が怖かった。
青井は静かに服を着始めた。特に可愛くも、洒落ているわけでもない、いつも通りの服。袖を通したとき、涙がこぼれそうになった。泣きたくて仕方がなかった。
無性に「灯台」に行きたかった。あの、パンの匂いと、海の静けさと、白洲の落ち着いた声。あそこは、自分がちゃんと呼吸できる場所だった。
もう二度と、アトリエには戻らない。それは宣言というより、ただの事実だった。
風は冷たく、湿り気をふくんでいた。今年もまた夏が終わる。御前崎の灯台へ続く遊歩道は、観光客の姿こそ少なくなっていたが、波の音だけは相変わらず寄せては返している。青井はサンダルが砂に埋もれるような感触を確かめながら歩いた。「灯台」の白い壁は、どこか物憂げに見えた。かつてここにイソヒヨドリが巣をつくっていて、ひな鳥の声がかすかに聞こえたことを思い出す。今、その巣はもうなかった。親鳥は旅立ち、子はどこかで生きているのだろう。自分だけが取り残されたような気がした。
どこから間違えたのだろう、と何度も考えた。岩田にはまだ別れを告げていない。松山とは、あれから一度も会っていない。アトリエには行かないままで、バイトもやめてしまった。美大を目指す意味さえ、霞んでいく。描くことは、生きることと密接につながっていたはずなのに、その線が今はどこにも見当たらない。何もかも、ただ遠くで揺れている。
扉の前で足を止めた。重たい鉄の取っ手に触れ、少しためらい、それでも押した。軋む音とともに扉は開いた。
そこに白洲がいた。青井が扉を開けた気配に気づいたのか、ゆっくりと振り返る。店内は薄暗く、白洲の影は壁に長く伸びていた。
その斜め奥に牧野がいた。淡い色のストールを肩にかけ、今日は犬を連れていないようだ。いつもより身軽で、そのぶん、彼女の存在がはっきりとそこにあった。
「久しぶりだね」と白洲が言った。
青井はかすかに笑った。
「何も、描けなくて」
声は海風にさらわれるように弱かった。
「描かなくていいのよ」と牧野が言った。「描けると思ったときに描けば」
その言葉に、青井は少しだけ苛立ちを覚えた。慰めは、いつだって現実からすこし浮いている。今日に限っては、牧野の存在が邪魔だと思った。その思いが、喉の奥に張りついた。そんな自分が最も醜いと知りながら。
白洲は壁に手を置いた。長く海風を浴びてきたようなその手だった。
牧野はストールの端を指で触れながら、青井の方を見た。その目には、探るようなやわらかさと、どこか断言めいた強さがあった。
「あなたは、どうして美大に行きたいのかしら」
穏やかな声だったが、逃げ道のない問いだった。
「プロになりたいからです」青井は言った。
「どうして?」
「好きなことで生きていくためです。絵を描いて、それで生活できたらと思って」
牧野は、かすかに首を傾ける。
「好きなことでお金を稼ぎたいということ?」
「……はい。そう、です」
牧野は少し目を伏せ、それから青井の方を見る。その眼差しはやさしいのに、刃物のように鋭かった。
「それだと、お金が最終目的で、絵を描くことが手段になってしまうわよ」
言葉は静かだったが、青井の胸には深く落ちた。重たく、否応なく。青井は視線を落とし、手を握った。心の奥の小さな場所に隠していた不安を、不意に指で触れられたようだった。
白洲がカウンターの奥で、ゆっくりと湯気の立つカップを置く音がした。彼はふたりの会話に口をはさまない。
「大学に行くことは選択肢のひとつよ」牧野は続けた。
「でも、生きるってことは、どうすれば生きていけるかを知ることから始まるの。どうやってお金を稼ぐか、ではなくてね。どういう風に、生きていたいか、よ」
風が灯台のガラス窓を揺らし、細い影がゆらりと床を横切った。
青井は言葉を返せなかった。そのとき、白洲がコーヒーとサンドイッチを青井の前にそっと置いた。
「ホットコーヒーとサンドイッチ。今日はサービスです」
そう言う白洲の声はやわらかかった。ほんの少し微笑んでいるように見えた。牧野はカップを手に持ち、息をふっとこぼした。
「旅はいいわよ」牧野が言った。
「ついこの間、フィリピンに行ってきたの。タガイタイというところ」
「旅、ですか?」
「ええ。知らない場所に行くとね、自分の生きている場所が、どれだけ小さかったかが分かるの。自分の考えも。自分が正しいと思っていたものなんて、本当は偶然みたいなものなのよ」
牧野の目は、少し遠くを見ていた。タガイタイという響きが、海を越えて、熱気と湿気を含んだ空気をこちらに運んでくるようだった。
青井は、自分がこれまで旅らしい旅をしてこなかったことを思った。家族は家にいることを好む人ばかりだった。記憶にあるいちばんの遠出は、愛知の伊良湖の海だった。渚の匂い、白い灯台、風に持っていかれそうな帽子。それは子どもの頃のただ一度きりの景色で、今でも脳裏にぼんやりと残っている。
「世界にはね、あなたがまだ知らない色がたくさんあるのよ」
その言葉は、青井の胸の奥の、長い間閉じていた小さな扉をゆっくりと叩いた。旅をすること。景色を見ること。知らない光や、知らない空気に触れること。それらが急に、手の届きそうな現実として立ちあがってきた。
白洲が静かにコーヒーを飲んでいる。その横顔は、どこか安堵したように見えた。青井と牧野の会話を、責めもせず、導きもせず、ただそっと支えるように。
青井はゆっくりとコーヒーを口に運ぶ。舌に広がる苦味が、なぜかひどく優しかった。
ガラスの向こうで、海がきらきらと光っていた。波は果てしなく、途切れることなく、続いていた。
その景色を見ながら、青井は思った。
自分は、まだ何も知らないのだ。
そして、それを知りたいと、今、初めて思ったのだと。
青井は木造三階のボロアパートの窓際で、預金通帳をじっと見つめていた。浜松を離れるときに両親からもらった「手切れ金」はまだ残っている。これを大学の入学費用にあてる必要はないだろうと、都合よく解釈して、青井はスマホを手に取り、静かに検索を始めた。
行き先はすぐに決まった。フランス、パリのマルモッタン・モネ美術館。『印象・日の出』を、実際にこの目で見るためだ。青井は幼い頃からモネの淡い光と水面の揺れに心を惹かれていた。絵の中の朝の光や霧の漂う港の風景、ぼんやりとした色の重なりは、どんなに技術を積んでも模写できない、まさに印象そのものだった。青井は、画面に描かれた水面の揺らぎや朝日の反射が、自分の手で描く海の色と、どれほど違うのか確かめたかった。
スマホで航空券を調べる。中部国際空港からパリへの直行便はなく、乗り継ぎ便を使う必要があった。行きの所要時間、乗り継ぎの待ち時間、到着時間を順に確認する。通貨の両替も調べ、一ユーロあたりの現在のレートや、現地での両替方法も調べた。パリ市内の移動手段、バスやメトロの路線図、切符の買い方もすべて事前に把握する。青井にとって、こうして計画を立てる時間もまた、旅の一部だった。
キャリーバッグは牧野から借りた。軽くて、少し傷があるものだが、青井には十分だった。パスポートも発行した。まだ光沢のある写真ページを何度も眺めて、少し緊張する手つきでページをめくった。
モネ美術館についても調べ、開館時間、休館日、入場料、館内の配置、そしてどの展示室に《印象・日の出》があるかまで確認した。青井は地図に印をつけるように、スクリーン上で美術館の間取りを何度も見返した。なぜそこまでして《印象・日の出》を見たいのか。青井自身でも言葉にするのは難しいが、漠然とした焦燥と憧れが混ざっているのは確かだった。自分は、海ばかり描いている。しかし、あの光や霧、色の層がもたらす繊細な揺らぎは、青井の手ではまだ捕まえられない。模写することもできるだろうが、現物を目にして、肌で感じて、呼吸のように吸収する経験がなければ、真に自分のものにはならないと思った。ネットの画像では分からない。色の微妙な重なり、筆の流れ、光の透過、空気感のようなものは、現物にしか存在しない。それを目の前にして、何時間でも見つめたい。画集や画面の画像では、光は平板だ。息づく水面の揺れや、空気の厚みは伝わらない。青井はそれを、自分の手で描き写すために、全神経を集中させて学びたかったのだ。
準備を進めながら、青井はこれまでの自分の御前崎での生活を思い返した。海の風景を描き続けた日々、「灯台」のホットコーヒーとサンドイッチの香り、白洲と牧野との静かな時間、松山との情事。すべてが、モネを見に行く決意と結びついているように感じた。絵の中の光や空気を、自分の心で体感するための旅。それは、単に絵を見ること以上の意味を持つ。自分の目で世界を確かめる、確かな一歩なのだ。
青井は検索を止め、深く息をついた。準備は整った。航空券、パスポート、宿泊先、両替、移動手段、すべて確認済み。心の中に、まだ誰も知らない自分だけの旅が広がった。パリの空気、マルモッタン・モネ美術館の静けさ、そして《印象・日の出》が、青井を待っている。
今までの迷いも不安も、この旅のために、すべて必要だったことなのだと思えた。目の前の通帳の数字も、手元のスマホも。青井の心は、パリの朝日の光を想像して、すでに少しだけ震えていた。
紙の棚は白い段階が何十と綺麗に並び、キャンバスは壁に寄りかかって静かに立っている。油絵具のチューブは箱ごとに規則正しく収まり、筆は毛先の形ごとに束ねられていた。それらはただそこにあるだけで、どこか厳粛な感じがした。触れようとしたら、ためらいを覚えるような静けさだった。
この店で働きはじめて三か月がたっていた。最初は、品出しやレジの操作など、やることひとつひとつに緊張していたが、今ではだいたいの流れが読めるようになった。
レジ横のベージュ色の箱に入った替え芯は、補充してもすぐに減っていくし、人気の水彩紙は雨の日に売れやすい。そういうことを、身体のほうが覚えていた。
「青井さん、新しく入った子に、油絵具の棚の説明お願いしてもいい?」
同僚の坂元が声をかけた。
坂元は青井より少し年上で、淡い色のセーターをよく着ている女性だった。
声がやわらかくて、相手を追い立てない。
「はい、大丈夫です」
青井は笑顔を作って、店の奥にいる新しいアルバイトの子を呼んだ。
「この棚が油絵具で、メーカーごとに分かれています。色番号はこのラベルのここにあって……」
話しながら、青井は後輩の視線がどこを見ているかを確かめた。説明がわかりやすいかどうか、理解のスピードに自分が合わせられているか。そういうことが、最近やっと少しできるようになってきた。それは自分が白洲に教わった姿勢とも、どこか似ていた。
午後の時間帯は客が少ないので、店内はまっすぐな静けさで満たされる。青井はレジ裏の作業台で、額縁に貼る値札シールを一枚ずつ印刷していた。シールを剥がすときの、指先にかかるわずかな抵抗。その感覚に、心が引っかかる時があった。
自分は前に進んでいるのだろうか、と青井は思った。昨日と今日がほとんど同じ形で続いてゆく。袋に入れる画用紙の枚数、筆の毛先を試す客の手つき、にじみ防止液の説明。そうした細かいことが、少しずつ積み重なっているだけだった。
「お疲れさま、休憩行ってきていいよ」
坂元が言った。
「ありがとうございます」
青井は裏の休憩スペースに入った。小さな折りたたみテーブルと、簡素な椅子が二脚だけある。壁は白くて、蛍光灯の光が均一に広がっていた。そこに座って水を飲むと、喉の奥が少しだけ冷たくなった。窓がなく、時間の流れが外から隔絶されているような場所だった。時計の針だけが動いている。青井はスマホを取り出し、画面を見た。特別な知らせはなく、画面はただ明るいだけで、意味はなかった。
白洲の店のことを思った。
あのカウンター、粉の匂い、サッカロマイセスの息づかいのような温度。あの場所は毎日同じで、循環しているのに、どこか季節の揺らぎのように、微妙に違いがあった。それに比べて、ここはどこまでも均一で澄んでいた。
坂元がレジから顔だけのぞかせて言った。
「青井さん、表に誰か来てるよ」
誰だろう、と青井は考えた。外に出ると、夕方の光がまだあたたかかった。店先の小さな屋根の影の中に、松山が立っていた。Tシャツに薄い綿のパンツ、足元はサンダル。まるで夏の空気と混ざり合って、そのままそこに立っているように見えた。
「松山さん」
「バイト中にごめん。これ、今日アトリエで配られたんだけど、青井さんいなかったから」
松山はビニール袋を少し持ち上げた。中には、小さな箱がいくつも入っている。海外のパッケージらしく、印刷が少し派手だった。
「君江さんが先週スイスに行って、買ってきたんだって」
「……チーズケーキ?」
青井は箱をひとつ取り出して、ラベルを見た。何語かわからない文字が並んでいた。白洲なら読めるかもしれない、と考えた。
「アトリエに冷蔵庫あるんだから、入れておいてくれればよかったのに」
青井は言った。
松山は、少し間を置いてから答えた。
「賞味期限近いから」
その言い方には、どこか言い訳のような、そのくせ隠しきれない理由が混じっていた。
「それになんだか会いたくなって、青井さんに」
風が吹き、松山のTシャツの裾が、わずかに揺れた。口説かれているのだろうか、と青井は思った。だけど、その声色はどこか岩田の話し方に似ていた。真っ直ぐで、余計なものがなく、ゆっくり届いてくる。だから裏を勘ぐるのは、少し違うような気がした。
「バイトのあと、時間ありますか」
そう松山が言った。
誘いでもあり、確認でもあり、手を差し出しているようでもあった。
青井は、自分の手の中のチーズケーキの箱を見つめる。少しだけ、指先が冷たい気がした。その冷たさは、迷いの形だった。岩田のことが、頭のどこかをよぎった。
松山は何も急かさなかった。
「……少しなら」
青井は言った。
松山の表情はほとんど変わらなかったが、目の奥がすこし柔らかくほどけた。
「じゃあ、店の近くで待ってます」
そう言って、松山は背を向けた。サンダルの音が、ゆっくりと舗道に消えていった。
鉄筋のアパートは、青井の住むぼろぼろの木造アパートに比べると、ずいぶんと頑丈に思えた。入口のオートロックは、指先で触れると軽く電子音を返した。まるでひとつひとつの扉が、生活を守ろうと目を光らせているような気がした。階段も廊下も、コンクリートの無機質な音がする。踏みしめるたび、その音が自分の気持ちをひとつずつ確認するように響いた。
松山の部屋には、余計なものがほとんどなかった。画材、スケッチブック、本がいくつか、充電器、テーブル、薄い布のソファ。必要なものしかない。生活に余白がある、というよりは、余白しかない部屋だった。
松山はすぐに寝息をたてはじめた。深く、安定したそれは、獣が巣に戻ったときと同じような気配を持っていた。青井は、目を閉じても眠れなかった。隣の松山の身体は大きくて、ひとつの塊のようにそこにある。熊が穴倉にいるみたいだ、と思った。同じベッドにいるのに、あまりに違う生き物が並んで横になっているようだった。
大きなベッドだったのに、それでも寝返りを打つ余裕がなかった。息をするたび、胸の奥が痛んだ。自分がどこにいるのか、どこに帰るべきなのか、はっきりしなくなった。
青井はそっと身体を起こした。シーツがかすかに擦れて音をたてる。何かの小さな装置のランプだけが、赤や緑にぼんやりと光っていた。その光だけが宇宙のように瞬いて、部屋の輪郭をかろうじて浮かび上がらせている。
青井は、ベッドに背を預けて座った。暗闇の中、呼吸を整えると、心が空洞のように感じられた。何か大事なものが欠けていることだけはわかるのに、それが何なのかはわからなかった。
——岩田と別れなければならない。
その言葉は、古い痛みのように胸の内側にゆっくり沈んでいった。
そして同時に、松山とも、と青井は思った。
このまま迷いの中にいて、寂しさを男に埋めてもらおうとする女にはなりたくなかった。慰めは波のように見えるだけで、触れたら消える。そのことを知っているのに、求めてしまいそうな自分が怖かった。
青井は静かに服を着始めた。特に可愛くも、洒落ているわけでもない、いつも通りの服。袖を通したとき、涙がこぼれそうになった。泣きたくて仕方がなかった。
無性に「灯台」に行きたかった。あの、パンの匂いと、海の静けさと、白洲の落ち着いた声。あそこは、自分がちゃんと呼吸できる場所だった。
もう二度と、アトリエには戻らない。それは宣言というより、ただの事実だった。
風は冷たく、湿り気をふくんでいた。今年もまた夏が終わる。御前崎の灯台へ続く遊歩道は、観光客の姿こそ少なくなっていたが、波の音だけは相変わらず寄せては返している。青井はサンダルが砂に埋もれるような感触を確かめながら歩いた。「灯台」の白い壁は、どこか物憂げに見えた。かつてここにイソヒヨドリが巣をつくっていて、ひな鳥の声がかすかに聞こえたことを思い出す。今、その巣はもうなかった。親鳥は旅立ち、子はどこかで生きているのだろう。自分だけが取り残されたような気がした。
どこから間違えたのだろう、と何度も考えた。岩田にはまだ別れを告げていない。松山とは、あれから一度も会っていない。アトリエには行かないままで、バイトもやめてしまった。美大を目指す意味さえ、霞んでいく。描くことは、生きることと密接につながっていたはずなのに、その線が今はどこにも見当たらない。何もかも、ただ遠くで揺れている。
扉の前で足を止めた。重たい鉄の取っ手に触れ、少しためらい、それでも押した。軋む音とともに扉は開いた。
そこに白洲がいた。青井が扉を開けた気配に気づいたのか、ゆっくりと振り返る。店内は薄暗く、白洲の影は壁に長く伸びていた。
その斜め奥に牧野がいた。淡い色のストールを肩にかけ、今日は犬を連れていないようだ。いつもより身軽で、そのぶん、彼女の存在がはっきりとそこにあった。
「久しぶりだね」と白洲が言った。
青井はかすかに笑った。
「何も、描けなくて」
声は海風にさらわれるように弱かった。
「描かなくていいのよ」と牧野が言った。「描けると思ったときに描けば」
その言葉に、青井は少しだけ苛立ちを覚えた。慰めは、いつだって現実からすこし浮いている。今日に限っては、牧野の存在が邪魔だと思った。その思いが、喉の奥に張りついた。そんな自分が最も醜いと知りながら。
白洲は壁に手を置いた。長く海風を浴びてきたようなその手だった。
牧野はストールの端を指で触れながら、青井の方を見た。その目には、探るようなやわらかさと、どこか断言めいた強さがあった。
「あなたは、どうして美大に行きたいのかしら」
穏やかな声だったが、逃げ道のない問いだった。
「プロになりたいからです」青井は言った。
「どうして?」
「好きなことで生きていくためです。絵を描いて、それで生活できたらと思って」
牧野は、かすかに首を傾ける。
「好きなことでお金を稼ぎたいということ?」
「……はい。そう、です」
牧野は少し目を伏せ、それから青井の方を見る。その眼差しはやさしいのに、刃物のように鋭かった。
「それだと、お金が最終目的で、絵を描くことが手段になってしまうわよ」
言葉は静かだったが、青井の胸には深く落ちた。重たく、否応なく。青井は視線を落とし、手を握った。心の奥の小さな場所に隠していた不安を、不意に指で触れられたようだった。
白洲がカウンターの奥で、ゆっくりと湯気の立つカップを置く音がした。彼はふたりの会話に口をはさまない。
「大学に行くことは選択肢のひとつよ」牧野は続けた。
「でも、生きるってことは、どうすれば生きていけるかを知ることから始まるの。どうやってお金を稼ぐか、ではなくてね。どういう風に、生きていたいか、よ」
風が灯台のガラス窓を揺らし、細い影がゆらりと床を横切った。
青井は言葉を返せなかった。そのとき、白洲がコーヒーとサンドイッチを青井の前にそっと置いた。
「ホットコーヒーとサンドイッチ。今日はサービスです」
そう言う白洲の声はやわらかかった。ほんの少し微笑んでいるように見えた。牧野はカップを手に持ち、息をふっとこぼした。
「旅はいいわよ」牧野が言った。
「ついこの間、フィリピンに行ってきたの。タガイタイというところ」
「旅、ですか?」
「ええ。知らない場所に行くとね、自分の生きている場所が、どれだけ小さかったかが分かるの。自分の考えも。自分が正しいと思っていたものなんて、本当は偶然みたいなものなのよ」
牧野の目は、少し遠くを見ていた。タガイタイという響きが、海を越えて、熱気と湿気を含んだ空気をこちらに運んでくるようだった。
青井は、自分がこれまで旅らしい旅をしてこなかったことを思った。家族は家にいることを好む人ばかりだった。記憶にあるいちばんの遠出は、愛知の伊良湖の海だった。渚の匂い、白い灯台、風に持っていかれそうな帽子。それは子どもの頃のただ一度きりの景色で、今でも脳裏にぼんやりと残っている。
「世界にはね、あなたがまだ知らない色がたくさんあるのよ」
その言葉は、青井の胸の奥の、長い間閉じていた小さな扉をゆっくりと叩いた。旅をすること。景色を見ること。知らない光や、知らない空気に触れること。それらが急に、手の届きそうな現実として立ちあがってきた。
白洲が静かにコーヒーを飲んでいる。その横顔は、どこか安堵したように見えた。青井と牧野の会話を、責めもせず、導きもせず、ただそっと支えるように。
青井はゆっくりとコーヒーを口に運ぶ。舌に広がる苦味が、なぜかひどく優しかった。
ガラスの向こうで、海がきらきらと光っていた。波は果てしなく、途切れることなく、続いていた。
その景色を見ながら、青井は思った。
自分は、まだ何も知らないのだ。
そして、それを知りたいと、今、初めて思ったのだと。
青井は木造三階のボロアパートの窓際で、預金通帳をじっと見つめていた。浜松を離れるときに両親からもらった「手切れ金」はまだ残っている。これを大学の入学費用にあてる必要はないだろうと、都合よく解釈して、青井はスマホを手に取り、静かに検索を始めた。
行き先はすぐに決まった。フランス、パリのマルモッタン・モネ美術館。『印象・日の出』を、実際にこの目で見るためだ。青井は幼い頃からモネの淡い光と水面の揺れに心を惹かれていた。絵の中の朝の光や霧の漂う港の風景、ぼんやりとした色の重なりは、どんなに技術を積んでも模写できない、まさに印象そのものだった。青井は、画面に描かれた水面の揺らぎや朝日の反射が、自分の手で描く海の色と、どれほど違うのか確かめたかった。
スマホで航空券を調べる。中部国際空港からパリへの直行便はなく、乗り継ぎ便を使う必要があった。行きの所要時間、乗り継ぎの待ち時間、到着時間を順に確認する。通貨の両替も調べ、一ユーロあたりの現在のレートや、現地での両替方法も調べた。パリ市内の移動手段、バスやメトロの路線図、切符の買い方もすべて事前に把握する。青井にとって、こうして計画を立てる時間もまた、旅の一部だった。
キャリーバッグは牧野から借りた。軽くて、少し傷があるものだが、青井には十分だった。パスポートも発行した。まだ光沢のある写真ページを何度も眺めて、少し緊張する手つきでページをめくった。
モネ美術館についても調べ、開館時間、休館日、入場料、館内の配置、そしてどの展示室に《印象・日の出》があるかまで確認した。青井は地図に印をつけるように、スクリーン上で美術館の間取りを何度も見返した。なぜそこまでして《印象・日の出》を見たいのか。青井自身でも言葉にするのは難しいが、漠然とした焦燥と憧れが混ざっているのは確かだった。自分は、海ばかり描いている。しかし、あの光や霧、色の層がもたらす繊細な揺らぎは、青井の手ではまだ捕まえられない。模写することもできるだろうが、現物を目にして、肌で感じて、呼吸のように吸収する経験がなければ、真に自分のものにはならないと思った。ネットの画像では分からない。色の微妙な重なり、筆の流れ、光の透過、空気感のようなものは、現物にしか存在しない。それを目の前にして、何時間でも見つめたい。画集や画面の画像では、光は平板だ。息づく水面の揺れや、空気の厚みは伝わらない。青井はそれを、自分の手で描き写すために、全神経を集中させて学びたかったのだ。
準備を進めながら、青井はこれまでの自分の御前崎での生活を思い返した。海の風景を描き続けた日々、「灯台」のホットコーヒーとサンドイッチの香り、白洲と牧野との静かな時間、松山との情事。すべてが、モネを見に行く決意と結びついているように感じた。絵の中の光や空気を、自分の心で体感するための旅。それは、単に絵を見ること以上の意味を持つ。自分の目で世界を確かめる、確かな一歩なのだ。
青井は検索を止め、深く息をついた。準備は整った。航空券、パスポート、宿泊先、両替、移動手段、すべて確認済み。心の中に、まだ誰も知らない自分だけの旅が広がった。パリの空気、マルモッタン・モネ美術館の静けさ、そして《印象・日の出》が、青井を待っている。
今までの迷いも不安も、この旅のために、すべて必要だったことなのだと思えた。目の前の通帳の数字も、手元のスマホも。青井の心は、パリの朝日の光を想像して、すでに少しだけ震えていた。

